「ヘルベルト・フォン・カラヤン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
nodaRvNanteIwazuni (会話) による ID:71673810 の版を取り消し
タグ: 取り消し
m https://archive.is/Ehwxh
23行目:
| URL = [http://www.karajan.org/ http://www.karajan.org/]
| Notable_instruments =
}}{{Portal クラシック音楽}}'''ヘルベルト・フォン・カラヤン'''(Herbert von Karajan, [[1908年]][[4月5日]] - [[1989年]][[7月16日]])は、[[オーストリア]]の[[指揮者]]。[[1955年]]より[[1989年]]まで[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時に[[ウィーン国立歌劇場]]の総監督や[[ザルツブルク音楽祭]]の芸術監督などの[[クラシック音楽]]界の主要ポストを独占し、多大な影響力を持つに至った。[[20世紀]]のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、[[日本]]では「楽壇の帝王<ref>{{Cite web |url =http://web.archive.org/web/20180326212540/http://toyokeizai.net/articles/-/213537|title =「楽壇の帝王」カラヤンが今でも愛されるワケ|publisher =toyokeizai.net|date = |accessdate =2019-02-14 }}</ref>」と称されていた。また、その独自の音楽性と自己演出は「カラヤン美学」と謳われ時代の寵児にもなった<ref name="KITOKU">『カラヤンとカラヤンの時代』[[帰徳書房]]、1979年。</ref>。
}}
{{ウィキポータルリンク|クラシック音楽}}
'''ヘルベルト・フォン・カラヤン'''(Herbert von Karajan, [[1908年]][[4月5日]] - [[1989年]][[7月16日]])は、[[オーストリア]]の[[指揮者]]。[[1955年]]より[[1989年]]まで[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時に[[ウィーン国立歌劇場]]の総監督や[[ザルツブルク音楽祭]]の芸術監督などの[[クラシック音楽]]界の主要ポストを独占し、多大な影響力を持つに至った。[[20世紀]]のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、[[日本]]では「楽壇の帝王」と称されていた。また、その独自の音楽性と自己演出は「カラヤン美学」と謳われ時代の寵児にもなった<ref name="KITOKU">『カラヤンとカラヤンの時代』[[帰徳書房]]、1979年。</ref>。
 
== 人物・来歴 ==
[[File:Bundesarchiv Bild 183-S47421, Herbert von Karajan.jpg|200px|thumb|カラヤン(1938年)]]
カラヤンは[[1908年]]に[[ザルツブルク州]]の[[ザルツブルク]]で、騎士 (Ritter) の子として生まれた。兄のヴォルフガング([[1906年]] - [[1987年]])も後に音楽家になっている。ザルツブルクの[[モーツァルテウム音楽大学|モーツァルテウム音楽院]]と[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]で学んだ後、親の買い上げた[[オーケストラ]]によりザルツブルクでデビュー。[[ドイツ]]の[[ウルム]]市立歌劇場の総監督から誘いが来て、[[1929年]]に『[[フィガロの結婚]]』でオペラ指揮者として脚光を浴び、[[1934年]]には同国[[アーヘン]]市立歌劇場で音楽監督に就任した。[[1938年]]の[[ベルリン国立歌劇場]]における[[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]]の『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』の指揮で国際的にも認められ、これにより、翌[[1939年]]にはベルリン国立歌劇場および[[ベルリン国立歌劇場管弦楽団|ベルリン国立管弦楽団]]の指揮者の地位を得た。この時代に[[ゴットフリート・フォン・アイネム]]が[[ベルリン国立歌劇場]]でコレペティトゥアとして雇用されカラヤンとともに勤務していた。イタリアの[[スカラ座|ミラノ・スカラ座]]においても[[オペラ]]を指揮することとし、驚異的ペースで出世した。
 
[[1946年]]、[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団|ウィーン・フィル]]との第二次世界大戦後初の演奏会を前に、戦時中[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の党員であった<ref>[[1933年]][[4月8日]]、ザルツブルクにおいて当時オーストリアでは非合法政党だった[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]への入党手続きをとった。ナチスの党員簿によると、最初の入党後カラヤンは行方不明扱いとされ、最初の党員番号は抹消されており、同年[[5月1日]]に[[ウルム]]で再入党している。当時のことを後年「私にとってナチス党員になることはスキークラブの会員になる程度の感覚だった」と述懐している。戦後の非ナチ化審理の際、カラヤンは[[1935年]]、アーヘン市立歌劇場のポスト就任と同時に入党と申告しているが、なぜ非ナチ化委員会でカラヤンの申告が不問にされたかは謎に包まれている。ただし、[[リチャード・オズボーン]]著の伝記では「戦後の時代に誤った情報が多く流された」とされており、議論の前提となる資料に多くの誤りがあったと述べられている。</ref> ことを理由に、[[ソビエト連邦|ソ連]]の占領軍によって公開演奏停止処分を受けた。しかし、翌[[1947年]]には再び処分保留となった。
 
[[1948年]]に[[ウィーン交響楽団]]の首席指揮者、翌[[1949年]]に[[ウィーン楽友協会]]の音楽監督に就任。また、イギリスのレコード会社[[EMI]]の録音プロデューサーの[[ウォルター・レッグ]]の元で、[[フィルハーモニア管弦楽団]]との演奏活動および[[レコード]]録音も盛んに行うようになった。[[1951年]]、戦後再開した[[バイロイト音楽祭]]の主要な指揮者として抜擢される。しかし、翌年には音楽祭を主催する[[ヴィーラント・ワーグナー]]と演出を巡って対立。この後、ヴィーラントの死後も[[バイロイト祝祭劇場|バイロイト]]に戻ることはなかった。この時期ウィーンフィルおよびウィーン国立歌劇場とも断絶状態となっている。
60 ⟶ 58行目:
同じく戦後派の指揮者[[カール・ベーム]]は、カラヤンは自分の求める響きが出るまで辛抱強く楽団員を説得していたと述べている(ベームは正反対)<ref>ドイツ「シュテルン」誌、1981年8月20日号</ref>。[[レガート]]を徹底的に使用し、[[ヴァイオリン|高弦]]を鋭くさせ、([[1960年代]]後半から)コンサート・マスターを2人おき、[[コントラバス]]を最大10人と大型化することにより、オーケストラの音響的ダイナミズムと、室内楽的精緻さという相反する要素の両立を実現した。どんなに[[金管楽器|金管]]が鳴っていても、内声や[[ヴァイオリン属|弦パート]]がしっかり鳴っていなければならないことや、低音パートがいくらか先に音を出すことなどを要求した。ライナー・ツェペリッツ(ベルリン・フィルの首席コントラバス奏者)は当時「(オーケストラが)これほどまでの音楽的充実感、正確性を追求できたことは未だかつてなかった。われわれは世界中のどのオーケストラにも優る、重厚で緻密なアンサンブルを手に入れたのだ」との発言を残している。一方で、一部の評論家からは音楽の音響面の美しさばかりを追求し作品の芸術的内容を軽視していると感じられたため<ref>音楽評論家の岩井宏之は「カラヤンは、いかにもスマートで美しい響きを生み出していたものの、作品の中に込められている作曲家その人の、あるいは当の作曲家が生きていた時代の"切なさ"を十分に表出するには至らず、したがって聴き手の心に迫ってくる力が弱かった。(中略)カラヤンがオーケストラに対すると、どんな作品であれ、美しく響かせること自体を目的にしているような趣があり、それが私には不満だった」と述べている(カール・ベーム指揮[[ウィーン交響楽団]]・[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]の[[四季 (ハイドン)|四季]]のCD <POCG-2328/9>のライナーノート、5頁)。</ref>、「音楽が[[大衆]]に媚びている」「音楽の[[セールスマン]]」などと批判されることもあった。しかし、カラヤンの正確さと完璧さの追求は[[レコード|LPレコード]]時代からその自己演出と相まって一定の評判を得ることに成功し、レコードのセールスと知名度の広がりの面で大きな成功を収めている。
 
細身の体を黒で統一された服装で包み、白い[[襟巻き|マフラー]]を長く垂らせたスタイルで[[スポーツカー]]や自家用[[ジェット機]]を自在に操る姿はダンディズムに満ち、既成の音楽家のイメージを一新させた。男性モード雑誌から抜け出したようなカラヤンのいでたちは、その作りだす音楽以外の要素でも人目を引いた。指揮者は本来、[[反射神経]]を要求する職業であるが、実際にはその激しい動作が笑いの種になってきた歴史があり、その滑稽さを皮肉る[[カリカチュア]]も[[19世紀]]以来無数に描かれ、[[フルトヴェングラー]]でさえも[[揶揄]]の対象にされてきた。そうした既成の概念を覆すように、カラヤンの動作はスマートで美しく洗練され、目を閉じ手を静かにウェイブする姿は神秘的にすら見せることに成功し、その雰囲気に酔う聴衆も多く存在するようになった。その[[美意識]]はオペラの配役にも及び、[[1977年]]の[[ザルツブルク音楽祭]]で『[[サロメ (オペラ)|サロメ]]』の[[タイトル・ロール]]に当時はまだ無名だった[[ヒルデガルト・ベーレンス]]を起用して一大センセーションを巻き起こした<ref>{{Cite web |url =https://web.archive.org/web/20131010223440/http://hmv.co.jp/news/article/908200003/|title =ヒルデガルト・ベーレンスさん東京で死去|publisher =hmv.co.jp |date = |accessdate =2019-02-14 }}</ref>
 
カラヤンはオーケストラに(長年鍛えられたベルリン・フィルの場合これが顕著であったが)指揮の打点時のずっと後に音を出すことを心がけさせ、非常に重量感のある音を求めていた。また、楽員の集中力や陶酔力を深めるためとして目をつぶって指揮したため、団員ははじめ大いに戸惑ったが、「じきに慣れるさ」の一言で押し通し、事実その通りになった。目を閉じる指揮法については、[[暗譜]]での指揮に関し[[ハンス・クナッパーツブッシュ|クナッパーツブッシュ]]から「(暗譜で指揮をしないのは)私は楽譜が読めるからだ」と皮肉を言われ、それに対し演奏に集中するための暗譜であることを誇示するために目を閉じるようになったという伝説がある。しかし、そのマナーでライブではよく振り間違えていた<ref>{{Cite web |url =http://web.archive.org/web/20090827004502/http://www.j-wave.co.jp/original/worldaircurrent/lounge/back/090808/index.html|title =カラヤンはドイツ語で「Disziplin」=規律、自分の計画通りにやっていく人ですよね。(眞鍋)|publisher =www.j-wave.co.jp |date = |accessdate =2019-02-14 }}</ref>
その[[美意識]]はオペラの配役にも及び、[[1977年]]の[[ザルツブルク音楽祭]]で『[[サロメ (オペラ)|サロメ]]』の[[タイトル・ロール]]に当時はまだ無名だった[[ヒルデガルト・ベーレンス]]を起用した際、カラヤンは<br />
''「サロメという女は20歳になっていない。従って、若くて細身の魅力ある歌手がいて初めて成立するオペラなのだ」''<br />と語った(もっとも、金融業界から転進した遅咲き歌手だったベーレンスは当時既に40歳だったが)。
[[オペラ]]という総合芸術の[[音楽監督]]が容姿も考慮して歌手を決めたのはカラヤンが最初だといわれ、こうした独自の美学がカラヤンの音楽づくりには徹底されていた<ref name="ISHII">[[石井宏 (音楽評論家)|石井宏]]ほか『カラヤンとカラヤンの時代』より。[[帰徳書房]]、1979年。{{要ページ番号|date=2017年10月}}</ref>。
 
カラヤンはその驚異的な記憶力で、当時の同世代の指揮者としては非常に地理的に広範なレパートリーを有していた(同時期に活躍した[[カール・ベーム]]、[[オイゲン・ヨッフム]]、[[ヨーゼフ・カイルベルト]]といったドイツ系指揮者はドイツ系の作曲家以外のレパートリーの比率は非常に低かった)。ベートーヴェンやブラームス、R.シュトラウス、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]などの[[ロマン派音楽|ドイツ・ロマン派]]の音楽や、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]、あるいは[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[ディヴェルティメント]]や[[セレナーデ]]などで特に高く評価された。また、[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]や[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]等のイタリア・オペラにはドイツオペラ以上のこだわりを見せ、北欧と英米以外の指揮者が演奏することの珍しい[[ジャン・シベリウス|シベリウス]]や[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]など北欧の作品も手がけた。また、[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]、[[アルバン・ベルク|ベルク]]、[[アントン・ヴェーベルン|ヴェーベルン]]などの[[新ウィーン楽派]]の演奏でも高い評価を得たばかりか、ドイツ系では演奏回数が少ないと思われる[[フランク]]の[[交響的変奏曲]]も[[ギーゼキング]]とともにクリア、来日時には[[松平頼則]]の「越天楽によるピアノと管弦楽の主題と変奏」も[[イヴォンヌ・ロリオ]]と共にクリアするなど、スコアの早読みでは[[オットー・クレンペラー]]を含めても前例のないクラスであった。
カラヤンはオーケストラに(長年鍛えられたベルリン・フィルの場合これが顕著であったが)指揮の打点時のずっと後に音を出すことを心がけさせ、非常に重量感のある音を求めていた。また、楽員の集中力や陶酔力を深めるためとして目をつぶって指揮したため、団員ははじめ大いに戸惑ったが、「じきに慣れるさ」の一言で押し通し、事実その通りになった。目を閉じる指揮法については、[[暗譜]]での指揮に関し[[ハンス・クナッパーツブッシュ|クナッパーツブッシュ]]から「(暗譜で指揮をしないのは)私は楽譜が読めるからだ」と皮肉を言われ、それに対し演奏に集中するための暗譜であることを誇示するために目を閉じるようになったという伝説がある。
 
カラヤンは当時の同世代の指揮者としては非常に広範なレパートリーを有していた(同時期に活躍した[[カール・ベーム]]、[[オイゲン・ヨッフム]]、[[ヨーゼフ・カイルベルト]]といったドイツ系指揮者はドイツ系の作曲家以外のレパートリーの比率は非常に低かった)。ベートーヴェンやブラームス、R.シュトラウス、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]などの[[ロマン派音楽|ドイツ・ロマン派]]の音楽や、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]、あるいは[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[ディヴェルティメント]]や[[セレナーデ]]などで特に高く評価された。また、[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]や[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]等のイタリア・オペラにはドイツオペラ以上のこだわりを見せ、北欧と英米以外の指揮者が演奏することの珍しい[[ジャン・シベリウス|シベリウス]]や[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]など北欧の作品も手がけた。また、[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]、[[アルバン・ベルク|ベルク]]、[[アントン・ヴェーベルン|ヴェーベルン]]などの[[新ウィーン楽派]]の演奏でも高い評価を得た。舞踏音楽、序曲、行進曲といったアンコール・ピース的な小品にも熱心で、世界最高クラスの地位にありながら[[ヨハン・シュトラウス]]をこれだけ繰り返し録音し続けた指揮者というのは、少なくとも彼の世代までは[[クレメンス・クラウス]]程度しか存在しなかった。[[リヒャルト・シュトラウス|R.シュトラウス]]とは個人的な知己でアドバイスをもらっており、彼の作品の演奏も高い評価を得ている。また『[[メタモルフォーゼン]]』(23人の弦楽器奏者のための作品)について、シュトラウス本人に後半部で各パートを3人に増やし69人で演奏することを提案し、同意を得ていたが、ベルリン・フィルの室内楽的緻密さによりその演奏方法の実現を可能にした。
 
[[1970年]]にワーグナー『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』の世界初のステレオによるスタジオ録音を、東西ドイツ統一前の[[ドレスデン]]で行った(この録音企画の当初の指揮者はサー・[[ジョン・バルビローリ]]だったが、1968年の「[[プラハの春]]」事件に際して、亡命チェコ人である[[ラファエル・クーベリック]]が音楽家たちにあてた「東側諸国での演奏自粛」という嘆願書にバルビローリが賛同して、この録音を断った。しかし、カラヤンはその代役を快く引き受けた<ref>山崎浩太郎「レコード芸術」2000年10月号</ref>)。また映像作品にも取り組み、積極的に新しい分野を開拓していった。ヨーロッパのオペラハウスでの原語上演は、カラヤンに始まるといわれている。それ以前は[[ロイヤル・オペラ・ハウス|コヴェントガーデン]]やウィーンですら、オペラの現地の言葉での翻訳上演は半ば常識であった。カラヤンの芸術監督時代のウィーン国立歌劇場で始められた原語上演への改革が、その後の今日に至る原語上演の広まりのさきがけとなった。その他の録音・映像として、[[1982年]]における[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の[[交響曲第9番 (マーラー)|交響曲第9番]]、[[1988年]]における[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]の[[交響曲第8番 (ブルックナー)|交響曲第8番]]、ザルツブルクにおけるオペラ映像などの実績が見られる。
75 ⟶ 71行目:
ジェット機を乗り継ぎ世界中を飛び回って活動するという、昨今のスター指揮者の活動様式を始めた最初の一人だった。カラヤン以前には、指揮者は一つ処でオーケストラやオペラハウスの顔という役割をするのが普通であった。また、自家用ジェット機を保有していて、自ら操縦し別荘などへ行っていた。愛機は[[ダッソー ファルコン 10]]。晩年になり、80歳で期限が切れる飛行機免許の代替として[[ヘリコプター]]の免許を取得している。
 
無類の[[自動車|車]]好きでありスピード狂としても知られ、様々な[[スポーツカー]]や[[グランツーリスモ|高性能車]]、[[高級車]]を所有し乗り継いでいた。歴代の愛車は[[メルセデス・ベンツ・300SL]]、[[ポルシェ・718|ポルシェ・RSKスパイダー]]、[[フェラーリ・275|フェラーリ・275GTB]]、[[ロールス・ロイス・ファントムV]]、[[フォード・GT40]]、[[ランチア・ストラトス]]、[[ルノー・5|ルノー・5ターボ]]、[[ポルシェ・911|ポルシェ・911(ターボおよびカレラRS)]]、[[メルセデス・ベンツ・W126|メルセデス・ベンツ・500SEL]]、[[アウディ・クワトロ]]など。{{仮リンク|オースチン・A90・アトランティック|en|Austin A90 Atlantic}}や[[ミニ (BMC)|ミニ・クーパーMk2]]といった、より一般的な[[コンパクトカー|小型車]]も所有したことがあり、また、[[日本車]]([[スバル・レオーネ#3代目 (1984年-1994年)|スバル・レオーネツーリングワゴン]])を友人の[[スイス]]人[[医師]]にプレゼントしたこともある。運転技術はF1ドライバーの[[ニキ・ラウダ]]直伝。最晩年には赤い[[ポルシェ・959]]に乗っていた。エリエッテ夫人は納車された959を見て、「もっとレコードを録音してもらわなきゃね」と[[ジョーク]]を飛ばしていた([[DVD]]「カラヤン・イン・ザルツブルク」にその時の様子が映像収録されている)。また、[[スキー]]好きで有名であった<ref>{{Cite web |url =http://web.archive.org/web/20170916204004/http://jp.yamaha.com/sp/services/myujin/15665.html|title =華麗なる完璧主義者、カラヤンのスピード狂はスキーにも及び、直滑降の名手音楽して山小屋の主{{誰生 vol.3|publisher =jp.yamaha.com |date =2012年4月 |accessdate =2019-02-14 }}から「アルプスで1番速いダンナ」と呼ばれていた</ref>
 
生前は派手な生活で知られたが、自ら地元アニフ([[:en:Anif#Notable people|Anif]])の教会内に用意し死後に埋葬された墓地は極めて質素である。死後、ザルツブルク市は遺族に対し豪華な墓地の提供を申し入れたが、エリエッテ夫人は故人の遺志を尊重しそれを断っている<ref>[[扶桑社]]「モーストリー・クラシック」2008年6月号</ref>。
165 ⟶ 161行目:
* 1959年、ベルリン・フィルに、[[東京芸術大学]]卒の[[ヴィオラ]]奏者[[土屋邦雄]]を日本人初の団員として迎えた。土屋は2001年まで在籍した。
* 1983年に、日本人初のベルリン・フィルの[[コンサートマスター]]として[[安永徹]]を選んだ。コンサートマスター試験の曲は、[[リヒャルト・シュトラウス]]の[[交響詩]]『[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはかく語りき]]』などだった。
* 若手指揮者の育成にも積極的で、[[小澤征爾]]などを輩出した。指揮コンクールにも積極的に関与していた<ref>{{Cite web |url =http://web.archive.org/web/20161127230324/http://conductingtokyo.org/report/15th/symposium.html|title =私がカラヤン・コンクールに参加した際、コンテスタントにカラヤンが言いました。|publisher =www.debaser.it |date = |accessdate =2019-02-14 }}</ref>。
* 若手指揮者の育成にも積極的で、[[小澤征爾]]などを輩出した。
* イギリスのロックバンド、[[レッド・ツェッペリン]]の『[[天国への階段]]』を聴き「完璧」と絶賛していた<ref>{{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20190214082737/https://www.debaser.it/led-zeppelin/stairway-to-heaven/recensione |title =Led Zeppelin|publisher =www.debaser.it |date = |accessdate =2019-02-14 }}</ref>。
* [[1975年]]頃、日本人のみならず東洋人として初の[[ウィーン国立歌劇場]]の団員として採用された[[アンネット・一恵・ストゥルナート|高島一恵]]は東洋人団員の前例が無いことから、団員やスタッフから酷いイジメや偏見に遭って悩んでいたが、当時、指揮者の世界最高権威であったカラヤンが高島を評価したことで、高島へのイジメや偏見がピタリと止んだ。このことから、カラヤンは高島にとってイジメや偏見から救ってくれた恩人的な存在であるといえる。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
 
== 関連文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2011年1月}}
* [[前田幸市郎]]他『音楽芸術 カラヤンの指導を受けて』 [[音楽之友社]] 1954年
* エルンスト・H.ホイサーマン『カラヤン 人と芸術』[[猿田悳]]訳 東京創元社 1971年
216 ⟶ 208行目:
* [[眞鍋圭子]]『素顔のカラヤン 二十年後の再会』2009 幻冬舎新書 
* ユルゲン・オッテン著 ピエール=アンリ・ヴェーラック編『ヘルベルト・フォン・カラヤン写真集』松村哲哉訳 ヤマハミュージックメディア 2012年
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
 
== 外部リンク ==
223 ⟶ 219行目:
* [http://www.rasscass.com/templ/te_bio.php?PID=641&RID=1 MSNによるカラヤンの紹介]{{de icon}}
* [http://www.karajan.co.uk/index.html Tribute site to Herbert von Karajan]
 
{{先代次代|{{仮リンク|ウルム市立歌劇場|en|Theater Ulm|de|Theater Ulm}}<br />楽長|1929年 - 1934年|?|?}}
{{先代次代|{{仮リンク|アーヘン市立歌劇場|en|Theater Aachen|de|Theater Aachen}}<br />音楽総監督|1935年 - 1941年|[[ペーター・ラーベ]]|[[パウル・ファン・ケンペン]]}}