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また、[[1936年]]2月の[[二・二六事件]]の際には、自ら[[昭和天皇]]と決起部隊の仲介工作を行い、決起部隊側に有利な様に事態を収拾しようと、[[陸軍大臣]]官邸に乗り込んだが、天皇が決起部隊を「暴徒」と呼び、鎮圧するように命じたため、橋本にも責任問題が及び、大佐で[[予備役]]へ回される事となる。
 
その後、[[日中戦争]]の勃発に伴い、[[連隊長]]として再び召集されたが、[[南京攻略戦]]の際の[[1937年]]12月12日に、イギリス砲艦[[レディバード (砲艦)|レディバード号]]に被害を与え(レディバード号事件)、さらに本海、中国空の攻撃機基地南京から脱出する運ぶガソリンを載せた油槽3隻攻撃するよう命令し、護送中のアメリカの砲艦[[パナイ (砲艦)|パナイ]]に砲沈し死傷者出す([[パナイ号事件]])という責任を取って陸軍[[砲兵]][[大佐]]で退役したいる
パナイ号は陸軍の砲撃による損傷こそなかったものの、その後南京上流に停泊中、陸軍より攻撃協力の要請を受けた海軍現地(上海)航空隊の空襲により撃沈、死傷者を出す([[パナイ号事件]])。橋本はこれらの責任を取って陸軍[[砲兵]][[大佐]]で退役した。
 
予備役中の1936年に[[大日本青年党]](のち[[大日本赤誠会]]に改称)を組織し[[ファシズム]]運動を展開、[[近衛文麿]][[内閣総理大臣|首相]]が掲げる[[新体制運動]]にも積極的に協力した。[[1942年]]の[[翼賛選挙]]で[[衆議院議員]]に当選し、[[翼賛政治会]]総務に就任した(そのため、戦後[[公職追放]]となる<ref>『朝日新聞』1946年2月10日一面。</ref>)。