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もともとは[[石岡神社]](氷見・橘地区)、[[伊曽乃神社]](神戸・大町・神拝・玉津・西条地区)、[[飯積神社]](玉津・飯岡地区と新居浜市大生院地区)の三神社の祭礼を指していたが、近年、[[嘉母神社]](禎瑞地区)の祭礼もこれに含めるようになった。特にことわらずに「西条祭り」という場合、祭礼の規模が一番大きい伊曽乃神社の祭礼を指す事が多い。
 
それぞれの神社によって、祭礼に奉納される山車は異なっており、石岡神社、伊曽乃神社では[[山車|楽車]]<ref group="注釈" name="file1">[[http://commons.wikimedia.org/wiki/ImageFile:Saijou_danjiri_.JPG]]</ref>(地元では「だんじり」と称する)と[[太鼓台#太鼓台(曳き山)|御輿屋台]]<ref group="注釈" name="file2">[[http://commons.wikimedia.org/wiki/ImageFile:Saijou_mikoshi.JPG]]</ref>(地元では「みこし」と称する)が、嘉母神社と飯積神社では[[太鼓台]]が奉納される。ただし石岡神社では御輿屋台のことをさして「太鼓台」と呼んでいるが、本来の御輿屋台の分類は太鼓台に属している。
 
なお、市町村合併により新しく西条市となった旧[[東予市]]・旧[[小松町 (愛媛県)|小松町]]・旧[[丹原町]]などの諸地域でおこなわれている祭礼でも旧西条市域と同様のだんじりや御輿、太鼓台が奉納され、年々規模も大きく盛んになっている。
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===== 10月16日 =====
*16日深夜、午前0時頃より、だんじり<ref group="注釈">[[http://commons.wikimedia.org/wiki/ImageFile:Saijo_danjiri_tyoutin.JPG]]</ref>が大町校区常心上組にある[[お旅所]]に向かい、それぞれがご神体の鎮座する神輿の前で[[練り]]を奉納する。
*だんじりがすべて揃うと、最後に4台の「[[太鼓台#太鼓台(曳き山)|みこし]](御輿屋台)」[http:<ref group="注釈" name="file2" //commons.wikimedia.org/wiki/Image:Saijou_mikoshi.JPG]>と呼ばれるひときわ大型の[[太鼓台]]型の屋台が、たわわに灯らせた提灯を一面にまとって勢いよく踊り込んでくる。この「みこし(御輿屋台)」と呼ばれる全国でも西条祭りだけに登場する独特の屋台には、人の背丈ほどもある木製の車が左右に付いており、これを30名程の[[wikt:Transwiki:かく#古典日本語|舁き夫]]連中が2本の太い梃子(てぎ・かき棒とよぶ)に体ごととりつき、巧みに操作して振り廻しては屋台ひしめく境内を暴れるように走り回る。優雅で華麗なだんじりとは対照的に、御輿独特の激しい太鼓の囃子とあいまって非常に猛々しく豪快な迫力にあふれた屋台となっている。
*お旅所を払暁に出発しただんじりは統一運行となり(御供だんじり以外)、早朝に「御殿前」と呼ばれる旧西条藩主邸跡、現在の[[愛媛県立西条高等学校|西条高校]]をぐるりと囲むお堀端に集合する。西条藩主に祭礼を奉納していた伝統に則り、[[大手門]]前で屋台の練りと神楽を奉納する。
*一方で御神輿は氏子区域内の残り半分の御神楽を挙げに市内を巡幸する。この16日は本町御供だんじりがその名の通り御神輿に付いて巡行する。
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*昼食は市街中心部を横切る古玉線に屋台が南向きに整列し、ここで束の間の休憩と食事を取る。伊曾乃例大祭は屋台台数が[[日本一の一覧#.E7.A5.AD.E4.BA.8B.E3.83.BB.E5.82.AC.E4.BA.8B|確認される中で日本一多い]]が、この昼食時は時間差もあるがほぼ全屋台が同じ道路で同じ向きにずらりと並ぶため屋台鑑賞や彫り物についてよく解る。(屋台総数が多いがため、他の場所での並びはL字型・御殿前や二列正対・玉津橋となる。また川入りも整列するが、神戸校区屋台が川原で川入りに備える)
*御殿前での奉納を終えただんじりは 伊曾乃氏子地区内の最東北部玉津地区の神楽所へ全てのだんじりが向かい、この玉津地区で束の間の休憩と昼食を取る。また毎年この地域に流れる[[渦井川]]上にかかる玉津橋において、地元玉津地区3屋台での「差し上げ」が行われており、地元人が挙げる見所のひとつとして人気が高い。近年までは、隣接する飯積神社例大祭の太鼓台もこの時間に合わせて来て、だんじりと太鼓台の統一運行中では唯一の対面する場所として名高い見所のひとつであったが、近年の屋台台数の増加により過密化した運行スケジュールの都合で、現在では太鼓台は早い時間に玉津橋に来るようになり、以前のような両祭礼の屋台が練り合う事は出来なくなっている。
*同日夕刻、[[宮入り]]。対外的には「川入り」として西条祭りを象徴する最大の見所として最も有名な場面でもある。市内の神楽所を巡幸する御神輿の露払いの役目を終えた各だんじりは、行列をなして市内と伊曽乃神社の間を流れる[[加茂川 (愛媛県)|加茂川]]河川敷に集合。土手上で対岸にむけてずらりと整列し(写真参照)、夕闇迫るなか、神様の御神輿の[[渡御]]を見送る。<ref group="注釈">[[http://commons.wikimedia.org/wiki/ImageFile:Isono_miyairi_01.JPG]]</ref>「ご神体の渡御」をもって祭礼の終わりとされることから、渡御する御神輿を中野地区のだんじりがとり囲んで御神輿と最後の練りあいをし、土手上で見送るだんじりとともに終わりゆく祭りの名残りを惜しむ。なお、意外と知られていないが 近代以前の宮入りでは 神輿が一銭橋を、宮司がただ馬に乗って川を渡るのみであったが、戦後、祭りの興奮冷めやらぬ名残惜しさより現在のような「川入り」の風習が始まり、今では祭り最大の見せ場として定着している。
*祭礼公式行事そのものは川入り後の御神輿の伊曾乃神社宮入で完了となるが、その後も[[伊予西条駅|JR伊予西条駅前]]や「くすのき通り」などで提灯に灯りを付けて祭りの最後を愉しむ。特に夜7時半頃から御殿前にて行われる西条校区のだんじり・みこしが全て集まる「夜の御殿前」は幻想的で人気が高い。
 
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天保6年([[1835年]])、第9代西条藩主 [[松平頼学]](よりさと)が命じ、天保13年([[1842年]])に 日野暖太郎和煦 (-にこてる/[[1785年]]-[[1858年]])の手により編纂された 西条藩の記録である「西条誌」[http://www.lib.ehime-u.ac.jp/saijo/]には、新居浜の[[一宮神社 (新居浜市)|一宮神社]]の祭礼について「''台尻(だんじり)、並びに御輿太鼓''(これは現在の御輿屋台と思われる)''数、合十七''」という記述があり、同一の藩領であった西条・新居浜ともに元は同様の祭りであったとされている。
 
以後、新居浜では次第にだんじりが廃れ、讃岐~宇摩地方より伝わった太鼓台(ちょうさ)が祭礼の主役になったのに対し、西条では旧来の形をほぼ残した形で現在に至っている。これによって現代では 西条市が四国の瀬戸内沿岸地域における祭礼文化圏の境界となっており、この地域での祭礼屋台の奉納は西条市以西の地域では現在「西条型だんじり」[http:<ref group="注釈" name="file1"//commons.wikimedia.org/wiki/Image:Saijou_danjiri_.JPG]>が主流であり、太鼓台での奉納は少数派となっている。
 
また新居浜市[[新居大島]]での祭礼(ここにも[http://www.dokidoki.ne.jp/home2/kisyoji/ 吉祥寺]という寺が存在する)をはじめとする瀬戸内海海域の離島諸地域の祭礼には西条型だんじりの原初の形態の屋台がいまも奉納されており、これは「山車(だんじり)」という祭礼神具の形態が太鼓台のように陸上からではなく海から伝播してきたものであることを裏付けており非常に興味深いものがある。
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==