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{{宗教改革}}
'''マルティン・ルター'''(Martin Luther {{IPA-de|ˈmaɐ̯tiːn ˈlʊtɐ||Martin Luther.ogg}}、[[1483年]][[11月10日]] - [[1546年]][[2月18日]])は、[[ドイツ人|ドイツ]]の[[神学者]]、[[教授]]、[[作家]]、[[聖職者]]であ。[[聖アウグスチノ修道会]]に属する。
 
1517年に『[[95ヶ条の論題]]』を[[ルターシュタット・ヴィッテンベルク|ヴィッテンベルク]]の教会に掲出したことを発端に、[[ローマ・カトリック教会]]から分離し[[プロテスタント]]が誕生した[[宗教改革]]の中心人物である。
 
== 思想 ==
[[聖アウグスチノ修道会]]に属する[[ドイツ人]][[神学]]教授として、ルターは「人の姿となられた神の言葉としての[[イエス・キリスト]]にのみ従う」というルター主義によって宗教改革をもたらした。
 
ルター主義は、[[ラテン語]]で「ソラ・フィデ」といい、「[[信仰義認|信仰のみ主義]]」と言われる。聖書は重視するが、[[カルヴァン主義]]に比べてより、信仰を重視するものである。ただし、ルターはその生涯として後に述べる[[#ドイツ農民戦争|ドイツ農民戦争]]に際し、[[行為義認]]ではないが世俗の秩序を尊重する立場から農民暴動を批判している。
 
そんなルターは[[宗教改革]]の中心人物となったことで[[プロテスタント]]教会の源流をつくった。[[聖書]]を[[キリスト教]]の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけはプロテスタント諸教会のみならず、[[対抗改革]]を呼び起こしたという意味で[[カトリック教会]]にも大きな影響を与えた。宗教上の足跡のみならず、ヨーロッパ文化、思想にも大きな足跡を残した。たとえばルターの手によるドイツ語聖書が、近代[[ドイツ語]]の成立において重要な役割を果たしたことや、自ら[[賛美歌]]をつくったことなどが挙げられる。[[カタリナ・ルター|カタリナ・フォン・ボラ]]という元修道女と結婚したことでプロテスタント教会における[[教職者]]、[[牧師]]の[[結婚]]という伝統をつくったことでも知られる<ref>なおプロテスタントでは[[万人祭司]]の強調から牧師は[[聖職者]]とは呼ばれない)</ref>。キリスト教会の分裂([[シスマ]])はルターの本来の意図ではなかったが、彼の影響下で[[福音主義#福音主義evangelisch|福音主義]]教会([[ルーテル教会|ルター派教会]])と[[アウクスブルク信仰告白]]が形成された。
 
ローマ・カトリック側はルターを「[[異端者]]」、「好色家」、「犯罪人」と呼んで批判した。ヨハネス・オッホレウス著『マルティン・ルターの行為と著作についての注解』がその代表作の1つである。[[ドミニコ会]]のハインリッヒ・デニフレの『原資料によるルターおよび発展初期のルター主義』は、ルターが肉欲的な動機でもって宗教改革を行ったとしている。[[イエズス会]]のハルトマン・グリザールの『ルター』は、ルターを「誇大妄想狂の精神異常者」と判断している。<ref>[[古屋安雄]]著『激動するアメリカ教会-リベラルか福音派か-』ヨルダン社</ref>
 
また、聖職者の独身制を採っていたローマ・カトリックは、ルターら宗教改革者の結婚を非難した<ref>[[中村敏]]著『著名人クリスチャンの結婚生活』[[ファミリー・フォーラム・ジャパン]]</ref>。[[1582年]]に[[ケルン大司教]]が宗教改革を導入すると発表して解任される事件が起こる。永田諒一はケルン大司教がプロテスタントに改宗したのは、結婚したかったからだとしている<ref>永田諒一『-カトリックとプロテスタントの社会史-』 講談社現代新書</ref>。
 
これらの批判は長年にわたって続いたが21世紀に入って[[カトリック教会の性的虐待事件]]発覚後に[[キリスト教における独身制|聖職者の独身制]]の意味が疑われている中で再評価され始めている。
 
ところで、多くの学者がルターの[[ユダヤ人]]に関する文書について議論している。彼の[[反ユダヤ主義|反ユダヤ]]的声明は、[[ナチス・ドイツ|ナチス政権下のドイツ]]([[1933年]]-[[1945年|45年]])で反ユダヤ主義の宣伝材料として使用された。ルターはユダヤ人のキリスト教への改宗を促そうとして、ユダヤ人は[[イエス・キリスト|イエス]]と同じ血統であるとした論文『イエス・キリストはユダヤ人生まれであった』([[1523年]])を書き、ローマ・カトリックの[[反ユダヤ主義]]に抗議した。こうした主張にもかかわらず、[[宮廷ユダヤ人]]の{{仮リンク|ヨーゼル・ロスハイム|en|Josel of Rosheim|de|Josel von Rosheim}}から[[選帝侯]]へユダヤ人を支援するよう働きかけてほしいとの打診を受けていた。しかしルターは[[1537年]]6月11日付の返信において、断るついでに挑発まで行っている<ref>Martin Luther, ''Werke, Bd. 6. Briefe'', Frankfurt, 1982, p.184.</ref>。晩年になってパンフレット『[[ユダヤ人と彼らの嘘について]]』<ref>翻訳『ユダヤ人と彼らの嘘』歴史修正研究所訳 ISBN 4947737379</ref>([[1543年]])を著し<ref>『ユダヤ人迫害史』黒川知文 教文館 ISBN 4764265354</ref><ref>『教会が犯したユダヤ人迫害』ミカエル・ブラウン著 横山隆訳 ISBN 4872071700</ref>、後の[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の反ユダヤ政策に通じる提案を行った<ref>大澤武男 『ユダヤ人とドイツ』 講談社〈講談社現代新書〉、1991年、57-59頁。</ref>。現代のドイツ・ルーテル派([[マリア福音姉妹会]]など)はこれについて悔い改めを表明している。
 
{{See also|反ユダヤ主義#‎ルターの反ユダヤ主義}}
 
== 生涯 ==
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=== ドイツ農民戦争 ===
「聖書に書かれていないことは認めることができない」というルターの言葉は、重税を負わされて苦しい生活を送っていた[[農民]]<ref>[[産業革命]]以前のヨーロッパの農民とは[[農奴]]のこと。松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』</ref>に希望を与えることになった。そもそも農民が[[領主]]に仕えることも聖書に根拠を見出せないというのである。かつてルターの同志であった[[トマス・ミュンツァー]]はこういった人々のリーダーとして社会変革を唱えるようになっていた<ref>宗教改革者で農民といっしょに命を落としたミンツァーはこう書いている。「休まずどんどんやれ、続けろ、火が燃えているではないか。刀を血で濡らせ。そこにいるあいつらがお前たちを支配しているかぎり、誰もお前たちに神について語ることはできない。なぜならそこにいる彼奴らがお前たちを支配しているからだ。休まず続けるのだ、がんばれ、時がきた、神が先へいく、神に続け」松原久子 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(文藝春秋 2005年)</ref>。ドイツの農民暴動自体は15世紀後半から頻発していたが、ルター説を根拠に農民たちが暴力行為に走ると、ルターはミュンツァーと農民たちを批判し、二人は互いに攻撃しあうようになった。さらに再洗礼派の過激な教説も農民暴動の火に油を注ぐ結果となった。1524年、西南ドイツの[[シュヴァーベン]]地方の修道院の農民たちが、賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて反乱を起こし、これは隣接地域へ瞬く間に広がっていった。これが1524年から1525年にかけて起こった[[ドイツ農民戦争]]である。ルターは初めはローマ殲滅戦を煽動していたが、次第に路線をめぐり党派に分裂するなか、ルターは反乱側にではなく、市民・貴族・諸侯の側について暴徒の鎮圧を求め、民衆には平和な抵抗を訴えるようになる(この平和な抵抗の路線についてはすでにさかのぼること[[1520年]]『ドイツ国民の貴族に与う』で示されていた)。
 
<!--ルターは路線変更後の[[1525年]]、『盗み殺す農民に対して』において「親愛なる諸卿よ、やれるものは誰でも彼ら(農民)をたたきつぶし、絞め殺し、刺し殺せ。(…)狂犬を撲殺しなけらばならない」と農民の殺害を煽動するほどであった<ref>エンゲルス『ドイツ農民戦争』</ref>。-->彼の唱える宗教改革を成功させるためには、世俗の権力と金力が必要だった。<ref>松原久子 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(文藝春秋 2005年)</ref>
ルターは路線変更後の[[1525年]]、『盗み殺す農民に対して』において「親愛なる諸卿よ、やれるものは誰でも彼ら(農民)をたたきつぶし、絞め殺し、刺し殺せ。(…)狂犬を撲殺しなけらばならない」と農民の殺害を煽動するほどであった<ref>エンゲルス『ドイツ農民戦争』</ref>。宗教改革を成功させるためには、世俗の権力と金力が必要だった<ref>松原久子 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(文藝春秋 2005年)</ref>
 
ルターの鎮圧支持<ref>宣教ビラ『強盗のような、殺人者のような農民の群れに対抗する』の中で「彼らを閉め出し、絞め殺し、そして刺し殺さなければならない、密かに、あるいは公然と」「扇動的な人間ほど、有毒で、有害で、悪魔的なものはいない」と書いている。松原久子 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(文藝春秋 2005年)</ref>を受けた領主たちはシュヴァーヴェン同盟を中心として徹底的に農民暴動を鎮圧し、首謀者たち(?<ref>彼らの大半は、一揆が崩壊した後に、領主による裁きによって殺された。ペトラルカ・マイスターの木版彫刻には、捕らえられ、縛られた農民たちが鞭を打たれ、[[車裂きの刑]]に処せられ、首を吊られ、[[串刺し]]にされ、首をはねられ、生きたまま[[火炙り]]にされている一方で、支配者たちが毛皮のついたガウンを身にまとい、復讐が実行される様子を観覧席から眺めている様が描かれている。松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』</ref>)を殺害した。ミュンツァーも捕らえられて処刑された。これにより反乱の主要地域であった南ドイツにおいてはルター派は支持を失い、またルターの説からそもそもこの反乱がおこったこともあって、ドイツ農民戦争時におけるルターの言動は結果として彼の評判を傷つけることになった。ルターはこの苦い経験から教会と信徒に対してやはり何らかのコントロールが必要であると考えるようになった。こうして領邦教会という新しい教会のあり方が生まれていく。
 
=== その後のルター派諸侯と領邦教会制度 ===
{{See|ヨーロッパにおける政教分離の歴史#シュマルカルデン戦争}}
ルターはその後、各地のルター派[[諸侯]]の間を回りながら[[領邦]]教会の成立を進めていった。このころ、信仰教育のためにルターが書いたのが信徒向けの『[[小教理問答書|小教理問答]]』および教師向けの『大教理問答』であった。同じころ、ルターの改革と国家教会というシステムはドイツを越えて[[北欧]]にまで波及するようになっていた。[[1529年]]にはカール5世包囲網を作り上げようとしたヘッセン伯[[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ]]のもくろみによって、ルターと[[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]は合同のための会談を行ったが、聖餐理解に大きな違いがあったため決裂した。
 
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[[1530年]]に行われた[[アウクスブルク]]の帝国議会でもカール5世はなお、プロテスタント諸侯との和解の道を模索していた。この議会にはルター自身は法的立場によって参加できなかったが、盟友の[[フィリップ・メランヒトン|メランヒトン]]が参加していた。この議会においてプロテスタント側は共同して『[[アウクスブルク信仰告白]]』を皇帝に提出した。これはプロテスタントによる初の信仰宣言であり、大部分がメランヒトンの手によると言われる。内容を見ると教義についてはプロテスタント側の一致を主眼にしたため、妥協的でわざと曖昧にされた部分が多く見られ、ルター自身は物足りないと感じていたと言われている。
 
=== 死去 ===
上記のような活動に取り組みながら、ルターは終生ヴィッテンベルク大学における聖書講義を続けた。宗教史と思想史、さらには文化史に大きな足跡を残したマルティン・ルターは、[[1546年]][[2月18日]]に生まれ故郷のアイスレーベンでこの世を去った。
 
== 思想 ==
{{See|ヨーロッパにおける政教分離の歴史#ルターの思想}}
ルターは「人の姿となられた神の言葉としての[[イエス・キリスト]]にのみ従う」として[[カルヴァン主義]]に比べてよりも信仰を重視し、[[信仰義認]](信仰のみ主義、[[ラテン語]]でSola fide ソラ・フィデ)、[[聖書のみ]]、[[万人祭司]]といった思想を展開した。
 
また、ルターは[[#ドイツ農民戦争|ドイツ農民戦争]]に際し、[[行為義認]]ではないが世俗の秩序を尊重する立場から農民暴動を批判している。
 
また、ユダヤ人を改宗しようと試みたが失敗したために『[[ユダヤ人と彼らの嘘について]]』([[1543年]])などを著し[[反ユダヤ主義]]的見解を発表し<ref>翻訳『ユダヤ人と彼らの嘘』歴史修正研究所訳 ISBN 4947737379</ref><ref>『ユダヤ人迫害史』黒川知文 教文館 ISBN 4764265354</ref><ref>『教会が犯したユダヤ人迫害』ミカエル・ブラウン著 横山隆訳 ISBN 4872071700</ref>、後の[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の反ユダヤ政策に通じる提案を行った<ref>大澤武男 『ユダヤ人とドイツ』 講談社〈講談社現代新書〉、1991年、57-59頁。</ref>。
 
=== 教役者の結婚 ===
ルターは[[カタリナ・ルター|カタリナ・フォン・ボラ]]という元修道女と結婚したことでプロテスタント教会における[[教役者]]、[[牧師]]の[[結婚]]という伝統をつくったことでも知られる(なお、プロテスタントでは[[万人祭司]]の強調から牧師は[[聖職者]]とは呼ばれない)。
 
聖職者の独身制を採っていたローマ・カトリックは、ルターら宗教改革者の結婚を非難した<ref>[[中村敏]]著『著名人クリスチャンの結婚生活』[[ファミリー・フォーラム・ジャパン]]</ref>。[[1582年]]に[[ケルン大司教]]が宗教改革を導入すると発表して解任される事件が起こるが、ケルン大司教がプロテスタントに改宗したのは結婚したかったからともいわれる<ref>永田諒一『宗教改革の真実-カトリックとプロテスタントの社会史-』 講談社現代新書</ref>。
 
{{要出典|これらの批判は長年にわたって続いたが21世紀に入って[[カトリック教会の性的虐待事件]]発覚後に[[キリスト教における独身制|聖職者の独身制]]の意味が疑われている中で再評価され始めている。|date=2019年2月}}
 
=== ドイツ主義 ===
ルターは、ドイツ主義的な見解を持っていた。ルターは、教皇がドイツ人を利用して第二の[[ローマ帝国]]を築いたが、その名を持っているのはドイツ人であり、神はこの帝国([[神聖ローマ帝国]])がドイツのキリスト教徒の王によって統治されることを望んでいると『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』(1520)で述べたり、1521年に「私はドイツ人のために生まれた」と述べるなどドイツ人の国民意識に立った発言を繰り返した<ref name="p-A-109-111">[[#ポリアコフ1985]],p.109-111.</ref><ref>「宗教改革」世界大百科事典,平凡社.</ref>。
 
[[1532年]]には「ドイツほど軽蔑されている民族はない」としてイタリア、フランス、イギリスはドイツをあざけっていると述べている<ref name="p-A-109-111"/>。
 
また晩年のルターは無敵の常備軍を持った[[統一ドイツ]]帝国を夢見ていた<ref name="p-A-109-111"/>。
 
=== 反ユダヤ主義 ===
{{See also|反ユダヤ主義#‎ルターの反ユダヤ主義}}
 
ルターは[[反ユダヤ主義]]的主張を持っていた<ref name="po-1-269-283"/><ref name="sim-108">[[#下村 1972|下村 1972]], p.107-8.</ref>。
 
初期のルターは、ユダヤ教徒を反教皇運動の援軍とみなして、ユダヤ人は[[イエス・キリスト|イエス]]と同じ血統であると主張して、ローマ・カトリックの[[反ユダヤ主義]]に抗議した。ヴォルムス国会の期間中にユダヤ人と討論したルターは、[[1523年]]に『イエスはユダヤ人として生まれた』などの小冊子を著して、愚者とうすのろのロバの教皇党たちが、ユダヤ人にひどい振る舞いをしてきたため、心正しきキリスト者はいっそユダヤ人になりたいほどだ、と述べたり、ユダヤ人は主と同族血統であるから、ユダヤ人はメシアであるイエスに敬意を表明し、キリストを神の子として認めるよう改宗を勧めた<ref name="po-1-269-283"/><ref name="osw55-75">[[#大澤1991]],p.55-75</ref>。
 
しかし、[[騎士戦争]]や、ルター派の[[トマス・ミュンツァー|ミュンツァー]]による[[ドイツ農民戦争|農民戦争]]が起きると、ルターは反乱勢力を批判し、それ以来ルターは人間世界のいたらなさや、政治的責任を強く感じるようになり、人間の内的自由に、神によってもたらせた地上の事物の秩序が対置され、服従の義務を唱え、キリスト教徒は従順で忠実な臣下でなければならないと説くようになった<ref name="po-1-269-283"/>。
 
さらに、ユダヤ人の改宗者はごくわずかで、改宗した者もほとんどが間をおかずしてユダヤ教に回帰したためか、[[1532年]]には「あのあくどい連中は、改宗するなどと称して、われわれとわれわれの宗教をちょっとからかってやろうというぐらいにしか思っていない」と述べている<ref name="po-1-269-283"/>。そのうちにルターは、不首尾の原因をユダヤ人のなせる業とみなすようになっていった<ref name="po-1-269-283"/>。
 
[[宮廷ユダヤ人]]の{{仮リンク|ヨーゼル・ロスハイム|en|Josel of Rosheim|de|Josel von Rosheim}}から[[選帝侯]]へユダヤ人を支援するよう働きかけてほしいとの打診を受けたルターは[[1537年]]6月11日付の返信において、断るついでに挑発まで行った<ref>Martin Luther, ''Werke, Bd. 6. Briefe'', Frankfurt, 1982, p.184.</ref>。[[1538年]]にロースハイムのヨーゼルに対してルターは、私の心はいまもユダヤ人への善意に満ちあふれているが、それはユダヤ人が改宗するために発揮されると述べた<ref name="po-1-269-283"/>。
 
その後まもなくして、ボヘミアの改革派がユダヤ人の教唆のもとユダヤ教に改宗し、[[割礼]]を受けて、シャバトを祝ったという知らせを受ける、ルターは「私はユダヤ人を改宗させることができない。われらが主、イエス・キリストさえ、それには成功しなかったのだから。しかし、私にも、彼らが今後地面を這い回ることしかできないように、その嘴を閉じさせるぐらいのことはできるだろう」と[[1539年]][[12月31日]]に述べた<ref name="po-1-269-283"/>。
 
[[ファイル:1543 On the Jews and Their Lies by Martin Luther.jpg|サムネイル|110px|ルター『[[ユダヤ人と彼らの嘘について]]』]]
[[1543年]]にルターは『[[ユダヤ人と彼らの嘘について]]』を発表し、以下の7つの提案を行った<ref name="sim-108"/><ref name="osw55-75"/>。
#[[シナゴーグ]]や学校([[イェシーバー]])の永久破壊
#ユダヤ人の家を打ち壊し、[[ジプシー]]のようにバラックか馬小屋のようなところへの集団移住
#ユダヤ教の書物の没収
#[[ラビ]]の伝道の禁止
#ユダヤ人護送の保護の取消
#高利貸し業の禁止。金銀の没収。
#若いユダヤ人男女に斧、つるはし、押し車を与え、額に汗して働かせること。
 
ルターは「ユダヤ人はわれわれの金銭と財を手中にしている。われらの国にあって、彼らの離散の地にあって、彼らはわれわれの主になったのだ」として、ユダヤ人は労働に従事していないし、ドイツ人もユダヤ人に贈与していなのだから、ユダヤ人による物の所有を禁じて、彼らの財産はドイツに返還されるべきであると主張した<ref name="po-1-269-283">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p269-283.</ref>。ユダヤ人はドイツにとっての災厄、悪疫、凶事であり、誰もユダヤ人にいて欲しいなどとは思っていない、その証拠にフランスでも、スペインでも、ボヘミアでも、レーゲンスブルクでもマグデブルグでも追放されたとして、ドイツ人はユダヤ人に宿を提供し、飲食も許しているが、ユダヤ人の子供をさらったり殺したりはしないし、彼らの泉に毒を撒いたり、彼らの血で喉の渇きを癒やそうともしていない(キリスト教徒がユダヤ教徒に対して述べていた[[反ユダヤ主義#儀式殺人|儀式殺人疑惑]]のことを指す)、ドイツ人はユダヤ人の激しい怒り、妬み、憎しみに値することは何かしただろうか、と論じた<ref name="po-1-269-283"/>。ルターは、大悪魔を別にすればキリスト(キリスト教徒)が「恐れなければならない敵はただ一人、真にユダヤ的であろうとする意志を備えた真のユダヤ人である」とし、ユダヤ人を家に迎え入れ、悪魔の末裔に手を貸す者は、「最後の審判の日、その行いに対し、キリストは地獄の業火をもって応えてくださるであろう。その者は、業火のなかでユダヤ人とともに焼かれるであろう」述べた<ref name="po-1-269-283"/>。
 
数ヶ月後の冊子『Vom Schem Hamphoras(シェム・ハメフォラス、口にするまでもない名前)』<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]]p.273.</ref> でもユダヤ人の改宗は、悪魔に改宗させるのと同じぐらい困難な業であり、ユダヤ人の福音書外典は四福音書が正統であるのに対して偽書であり、悪魔の使いのユダヤ人は「悪魔の群れよりもさらに悪辣」で、「神よ、私は、あなたの呪われた敵、悪魔とユダヤ人に抗しながら、必死の思いで、これほどまでの恥じらいとともにあなたの神々しき永遠の威厳を語らねばならないのです」と論じて、最後に「私はこれ以上、ユダヤ人と関わりを持ちたくないし、彼らについて、彼らに抗して、何かを書くつもりもまったくない」と閉じた<ref name="po-1-269-283"/>。
 
ルターは死の四日前の2月18日の最後の説教では、ドイツ全土からユダヤ人を追放することが必要であると訴えた<ref name="po-1-269-283"/>。
 
ルター晩年のユダヤ攻撃に対しては、ルターの協力者[[フィリップ・メランヒトン|メランヒトン]]、スイスの[[フルドリッヒ・ツヴィングリ|ツヴィングリ]]の後継者の[[ハインリヒ・ブリンガー|ブリンガー]]、ユダヤ人のロースハイムのヨ−ゼルらが批判した<ref name="po-1-269-283"/>。なお、ルターは神を「最大級の愚か者<ref>stultissimus</ref>」「キリストは淫乱であったかもしれない」と述べたり、教皇に対してはユダヤ人攻撃の時よりももっと汚い言葉を使って罵詈雑言を浴びせてもいる<ref name="po-1-269-283"/>。
 
こうしてルターの反ユダヤ主義は、タルススのパウロス(聖[[パウロ]])や[[ムハンマド]]と同様の転機を経て、ユダヤに対する深い憎悪となった<ref name="po-1-269-283"/>。
 
ルターの反ユダヤ文書はルター死後あまり重視されなかったが、ヒトラー政権になって一般向けの再販が出てよく読まれた<ref name="po-1-269-283"/>。ルターの反ユダヤ的声明は、[[ナチス・ドイツ|ナチス政権下のドイツ]]で反ユダヤ主義の宣伝材料として使用された。[[1946年]]、[[第二次世界大戦]]後の[[ニュルンベルク裁判]]で[[ユリウス・シュトライヒャー]]は「もしルターが生きていたなら、必ずや本日、私の代わりにこの被告席に座っていた」と述べている<ref name="osw55-75"/>。
 
{{要出典|現代のドイツ・ルーテル派([[マリア福音姉妹会]]など)はこれについて悔い改めを表明している。|date=2019年2月}}
 
== 影響 ==
キリスト教会の分裂([[シスマ]])はルターの本来の意図ではなかったが、彼の影響下で[[福音主義#福音主義evangelisch|福音主義]]教会([[ルーテル教会|ルター派教会]])と[[アウクスブルク信仰告白]]が形成された。
 
[[聖書]]を[[キリスト教]]の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけはプロテスタント諸教会のみならず、[[対抗改革]]を呼び起こしたという意味で[[カトリック教会]]にも大きな影響を与えた。ローマ・カトリック側はルターを「[[異端者]]」「好色家」「犯罪人」「[[妄想#誇大妄想|誇大妄想狂]]」と呼んで批判した{{refnest|group=*|ヨハネス・オッホレウス著『マルティン・ルターの行為と著作についての注解』がその代表作の1つである。[[ドミニコ会]]のハインリッヒ・デニフレの『原資料によるルターおよび発展初期のルター主義』は、ルターが肉欲的な動機でもって宗教改革を行ったとしている。[[イエズス会]]のハルトマン・グリザールの『ルター』は、ルターを「誇大妄想狂の精神異常者」と判断している。<ref>[[古屋安雄]]著『激動するアメリカ教会-リベラルか福音派か-』ヨルダン社</ref>}}。
 
宗教上の足跡のみならず、ヨーロッパ文化、思想にも大きな足跡を残した。たとえばルターの手によるドイツ語聖書が、近代[[ドイツ語]]の成立において重要な役割を果たしたことや、自ら[[賛美歌]]をつくったことなどが挙げられる。また当時宗教家の間で流行っていた[[ボウリング]]のルールを統一してもいる。
 
=== 賛美歌 ===
ルターは[[礼拝]]の場で積極的に[[賛美歌]]([[コラール]])の歌唱を奨励し、自らも[[リュート]]を演奏しながら多くのコラールを作詞・作曲した。彼は『[[神はわがやぐら]]』『[[主よ深きふちの底より|深き悩みの淵より]]』など現在の日本でもよく知られているコラールを残したが、[[合唱曲]]としての編曲はヴィッテンベルク教会の楽長[[ヨハン・ヴァルター]]が多くを手がけた。カトリック教会は古くからラテン語典礼文による複雑な多声合唱を発展させており、これらは音楽的に優れたものではあったが、必ずしも歌詞の聞き取りやすいものではなかった。また専門的な合唱隊が歌唱を担当した。これに対しルターは、礼拝において会衆が彼らの日用語であるドイツ語で、美しいだけでなく単純で歌詞が聞き取りやすいコラールによって神をともに賛美することを重視し、新たな典礼音楽を推進した。ルターの奨励したコラールは、ドイツの[[プロテスタント教会]]における[[バロック音楽]]の発展に大きな影響を及ぼし、コラールを主題とした[[オルガン]]曲(前奏曲、幻想曲)、声楽曲([[モテット]]、[[カンタータ]]、[[オラトリオ]])など広い分野に及んだ。
 
=== ドイツ語への影響 ===
またルターは主に聖書翻訳を通じて、近世ドイツ語の規範の確立に大きく寄与した。一方でルターは国際語としてのラテン語の長所を理解しており、神学的著述のみならずラテン語による[[ミサ曲]]の作曲も行っている。ルターにとっては公衆に広く理解されるということがもっとも重要であり、{{要出典|ルターのドイツ語重視を単なる[[民族主義]]的熱情と理解することはできない。ルターが民族主義と離れていたことは、民間伝承の英雄ディートリヒや民話などを説教に用いる神父をルターが軽蔑していたことにも表れる。それら大衆のものは文化的ではなく(教会の教養者の多くがそう考えていたように)教会の教えに反する「ロバの話」無教養の産物と断じられた|date=2019年2月}}。また、[[アリストテレス]]や[[プラトン]]を[[異教]]者とし、それについて語る神父もまたルターの軽蔑の対象だった。
 
== 著作 ==
*『[[95か条の論題]]』(1517年)
*『[[キリスト者の自由]]』(1520年)
*『[[教会のバビロニア捕囚]]』(1520年)
*『[[奴隷意志論]]』 (1525年)
*『[[小教理問答書]]』(1529年)
***[[ルーテル学院大学]]ルター研究所訳『エンキリディオン―小教理問答 』リトン (2014/12)
*『[[ユダヤ人と彼らの嘘について]]』(1543年)
 
日本語訳
* 植田兼義 , 金子晴勇訳『ルター教会暦説教集』教文館 (2011/05)
* 徳善義和訳『ルター著作選集』教文館 (2012/04)
 
=== ルター訳聖書 ===
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旧約聖書についてはルターはユダヤ教(ヘブライ語)において正典とされている書をそのままキリスト教における旧約の正典とした。そのうえで、ローマ教会が正典として認め、ユダヤ教徒が外典とした数書(ヘブライ語ではなくギリシア語をもともとの言語とする[[ヘレニズム]]時代の書物)を「Apocrypha」として全て翻訳し、但し書きをつけた上で自分の聖書(ドイツ語)に収めている。それらの歴史的な意義を認めたからである。つまりルターは正典とそうでない書の区別を明確にしただけで排除はしていない。これは[[イングランド国教会|英国国教会]]も時を移さず踏襲した判断であり、根拠のないルター個人の決定では決してない。やがてプロテスタント教会で使用する聖書からルターがApocryphaとした書物はおおむね姿を消したが、これは長い世紀の移り行きの結果である。
 
ルターがこの四つを正典と見なしていなかったとするラインポルトらの見解に対し、ルター伝『我ここに立つ』を書いたベイントンは、ルターはこの四つを正典と見なしていたとする見解を持っている<ref name="okada" />。ルターは新約聖書27巻の正典性は認めていたが、ヤコブ書は福音より律法を主張していると考えていた<ref name="okada" /> 。ストンハウスは、聖書のルターが神中心よりもキリスト中心であるとし、ルターの聖書の活用方法を批判的にとらえている<ref name="okada" /> 。[[岡田稔]]はルターが宗教改革の尖兵であったために、新約聖書のうち23巻をとくに教理の構築のために活用したと考えている<ref name="okada" /> 。
 
ルターが聖書の翻訳において、信仰義認の教理から本文解釈を行って訳したことも知られている
 
=== 死去遺構 ===
ルターの生地・没地であるアイスレーベンや、彼が長年神学教授を務め、「95ヶ条の論題」を発表して宗教改革の口火を切ったヴィッテンベルクの町には、いまでもルターの[[遺構]]が数多く存在する。これらの建造物群のうち、アイスレーベンのルターの生家やルター晩年の家、ヴィッテンベルクのルター・ホール(ルター住居)、ルターが説教を行っていた町の教会、そして「95ヶ条の論題」が貼られた城付属聖堂は、[[アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルター記念建造物群]]として、[[1996年]]に[[世界遺産]]に<ref>小学館編『地球紀行 世界遺産の旅』p85 小学館<GREEN Mook>1999.10、ISBN 4-09-102051-8</ref>、[[2015年]]には著述作品などが[[ユネスコ記憶遺産|記憶遺産]]に<ref>[http://www.unesco.org/new/en/communication-and-information/flagship-project-activities/memory-of-the-world/register/full-list-of-registered-heritage/registered-heritage-page-2/documents-representing-the-beginning-and-the-early-development-of-the-reformation-initiated-by-martin-luther/ Documents representing the beginning and the early development of the Reformation initiated by Martin Luther] Memory of the World - UNESCO</ref>登録されている。
上記のような活動に取り組みながら、ルターは終生ヴィッテンベルク大学における聖書講義を続けた。宗教史と思想史、さらには文化史に大きな足跡を残したマルティン・ルターは、[[1546年]][[2月18日]]に生まれ故郷のアイスレーベンでこの世を去った。<!--彼の死には多くの謎があり、自殺という説もある{{要出典}}。-->
 
== 脚注 ==
ルターの生地・没地であるアイスレーベンや、彼が長年神学教授を務め、「95ヶ条の論題」を発表して宗教改革の口火を切ったヴィッテンベルクの町には、いまでもルターの遺構が数多く存在する。これらの建造物群のうち、アイスレーベンのルターの生家やルター晩年の家、ヴィッテンベルクのルター・ホール(ルター住居)、ルターが説教を行っていた町の教会、そして「95ヶ条の論題」が貼られた城付属聖堂は、[[アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルター記念建造物群]]として、[[1996年]]に[[世界遺産]]に<ref>小学館編『地球紀行 世界遺産の旅』p85 小学館<GREEN Mook>1999.10、ISBN 4-09-102051-8</ref>、[[2015年]]には著述作品などが[[ユネスコ記憶遺産|記憶遺産]]に<ref>[http://www.unesco.org/new/en/communication-and-information/flagship-project-activities/memory-of-the-world/register/full-list-of-registered-heritage/registered-heritage-page-2/documents-representing-the-beginning-and-the-early-development-of-the-reformation-initiated-by-martin-luther/ Documents representing the beginning and the early development of the Reformation initiated by Martin Luther] Memory of the World - UNESCO</ref>登録されている。
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=== 注釈 ===
== 文化史におけるルターの意義 ==
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ルターが[[礼拝]]の場で積極的に[[賛美歌]]([[コラール]])の歌唱を奨励し、自らも[[リュート]]を演奏しながら多くのコラールを作詞・作曲したことはよく知られている。彼は『[[神はわがやぐら]]』『[[主よ深きふちの底より|深き悩みの淵より]]』など現在の日本でもよく知られているコラールを残したが、[[合唱曲]]としての編曲はヴィッテンベルク教会の楽長[[ヨハン・ヴァルター]]が多くを手がけたことが分かっている。カトリック教会は古くからラテン語典礼文による複雑な多声合唱を発展させており、これらは音楽的に優れたものではあったが、必ずしも歌詞の聞き取りやすいものではなかった。また専門的な合唱隊が歌唱を担当した。これに対しルターは、礼拝において会衆が彼らの日用語であるドイツ語で、美しいだけでなく単純で歌詞が聞き取りやすいコラールによって神をともに賛美することを重視し、新たな典礼音楽を推進した。ルターの奨励したコラールは、ドイツの[[プロテスタント教会]]における[[バロック音楽]]の発展に大きな影響を及ぼし、コラールを主題とした[[オルガン]]曲(前奏曲、幻想曲)、声楽曲([[モテット]]、[[カンタータ]]、[[オラトリオ]])など広い分野に及んだ。
 
=== 出典 ===
またルターは主に聖書翻訳を通じて、近世ドイツ語の規範の確立に大きく寄与した。一方でルターは国際語としてのラテン語の長所を理解しており、神学的著述のみならずラテン語による[[ミサ曲]]の作曲も行っている。ルターにとっては公衆に広く理解されるということがもっとも重要であり、ルターのドイツ語重視を単なる[[民族主義]]的熱情と理解することはできない。
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ルターが民族主義と離れていたことは、民間伝承の英雄ディートリヒや民話などを説教に用いる神父をルターが軽蔑していたことにも表れる。それら大衆のものは文化的ではなく(教会の教養者の多くがそう考えていたように)教会の教えに反する「ロバの話」無教養の産物と断じられた。また、[[アリストテレス]]や[[プラトン]]を[[異教]]者とし、それについて語る神父もまたルターの軽蔑の対象だった。
 
== 参考文献 ==
また当時宗教家の間では流行っていた、[[ボウリング]]のルールを統一したことでも有名である。
* {{Cite|和書 |author = 大澤武男 |title = ユダヤ人とドイツ |publisher = 講談社 |series = 講談社現代新書 |year = 1991 |month = |ref =大澤1991}}
*黒川知文『ユダヤ人迫害史』教文館 ISBN 4764265354
*古屋安雄著『激動するアメリカ教会-リベラルか福音派か-』ヨルダン社
*中村敏著『著名人クリスチャンの結婚生活』ファミリー・フォーラム・ジャパン
*永田諒一『宗教改革の真実-カトリックとプロテスタントの社会史-』 講談社現代新書、2004/3/21
*徳善義和著『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』岩波新書、2012年
*{{Cite journal |和書 |author = 下村由一 |title = ドイツにおける近代反セム主義成立の諸前提(1) |date = 1972-03 |publisher = |journal = 駒澤大學外国語部紀要 |volume = 1 |issue = 98 |naid = 120005493194 |pages = 98-117 |ref = 下村 1972 }}
*{{Cite book |和書 |author = レオン・ポリアコフ | others = 菅野賢治訳 |
title = 反ユダヤ主義の歴史 第1巻 キリストから宮廷ユダヤ人まで |date= 2005-03-25 |publisher = 筑摩書房 |isbn= 978-4480861214 |ref = ポリアコフ 1 }}[原著1955年]
*{{Cite book |和書 |author = レオン・ポリアコフ | others = アーリア主義研究会訳 |title = アーリア神話―ヨーロッパにおける人種主義と民主主義の源泉 |date= 1985-08 |publisher = 法政大学出版局 |isbn= 978-4588001581 |ref = ポリアコフ1985}}[原著1971年]
*ミカエル・ブラウン著『教会が犯したユダヤ人迫害の真実』 横山隆訳、マルコーシュ・パブリケーション (1997年) ISBN 4872071700
 
== 脚注 ==
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<div class="references-small"><references /></div>
 
== 関連書籍文献 ==
* {{Cite book|和書|author=長谷川輝夫|chapter=1.宗教改革と宗教戦争|title=世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花|publisher=中央公論社|year=1997|isbn=4-12-403417-2|ref=長谷川2}}
*宮田光雄『ルターはヒトラーの先駆者だったか: 宗教改革論集』2018/8/24,新教出版社
* 中谷博幸 『マルティン・ルターとその世界』 美巧社、2016年12月初版。ISBN 978-4-86387-080-2
 
== 関連項目 ==
{{columns-list|2|
*[[デジデリウス・エラスムス]]
*[[プロテスタント]]
*[[宗教改革]]
*[[ルーテル教会]](ルター派の教会)
*[[シュマルカルデン同盟]]
*[[ヨーロッパにおける政教分離の歴史]]
*[[反ユダヤ主義]]
*[[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]
*[[ジャン・カルヴァン]]
*[[ルーカス・クラナッハ]]
*[[デジデリウス・エラスムス]]
*[[シュマルカルデン同盟]]
}}
 
== 外部リンク ==