「中村歌右衛門 (3代目)」の版間の差分

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[[寛政]]2年(1790年)10月、父歌右衛門が死去し、翌月に父の門弟が名乗っていた[[中村歌右衛門|歌右衛門]]の名跡を譲り受け襲名する。[[享和]]元年(1801年)11月より[[立役]]となり、[[嵐吉三郎|二代目嵐吉三郎]]と競い合い大坂で人気を二分した。[[文化 (元号)|文化]]5年(1808年)[[江戸]]に行き、[[中村座]]に出て大当りを取る。その後踊りの名手[[坂東三津五郎 (3代目)|三代目坂東三津五郎]]と競い合い江戸でも人気を博す。
 
文化15年(1818年)2月に[[中村芝翫]]を名乗るが、翌年大坂で歌右衛門の名に復し以後立役をつとめる。文政8年(1825年)に一度引退興行を行なうが、すぐ舞台に復帰する。評判記には文政10年(1827年)に「無類」、天保3年(1832年)には「古今無類総芸頭」を受ける。しかしこの頃から病気がちになり、天保7年(1837(1836年)門下の[[中村歌右衛門 (4代目)|二代目中村芝翫]]に歌右衛門の名を譲り、自らは[[中村玉助]]と名乗った。その二年後大坂で没す。享年61。
 
当り役は『[[一谷嫩軍記]]』の[[熊谷直実]]、『[[義経千本桜]]』の源九郎狐、『[[仮名手本忠臣蔵]]』の[[大野群右衛門|定九郎]]、『[[楼門五三桐]]』の[[石川五右衛門]]、『[[隅田川続俤]]』の法界坊、『[[五大力恋緘]]』の弥助など。[[道外方]]、[[立役]]、[[若衆|若衆方]]、[[実事]]、[[女形]]の役を[[時代物]][[世話物]]のわけ隔てなくこなす万能型の役者で、その型は後に梅玉型といわれた。[[所作事]]にも優れ、変化舞踊を三代目三津五郎と競って上演し、それら所作事は『越後獅子』などをはじめとして今に伝わる。狂言作者としても活躍し、'''金澤龍玉'''(かなざわりゅうぎょく)の名で『[[雁のたより]]』などを残している。