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*秋庵(あきお、闢盧・秋尾とも)御狩(9月下旬)
 
このほか、1月4日には小規模の打向御狩神事([[筆]]用の毛を採るために行われる)があった<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、98頁。</ref>。また、年四度の御狩には正式に含まれていないが、正月元旦の蛙狩神事は「生贄の初め」とされた<ref>宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社、1992年、19-20頁。</ref>。
 
[[東南アジア]]では稲作儀礼には動物供犠が付随することが多く、古代日本においても稲作のために動物が生贄として捧げられる事例がいくつか確認できる{{efn|『[[播磨風土記]]』には、稲籾を鹿の血につけると一夜のうちに苗が生じたという伝承がある<ref>長田俊樹「[https://ci.nii.ac.jp/naid/120005681678 農耕儀礼と動物の血(上) : 『播磨国風土記』の記述とその引用をめぐって]」『日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要』20、2000年、81-123頁。</ref>。}}。上社では6月下旬の御作田御狩で獲た贄を奉納した直後に[[御田植祭|田植神事]]があり、7月の御射山祭の後に憑(田の実)神事があり、9月の秋庵御狩の際に[[新嘗祭|新嘗]]があり、狩猟神事と農耕神事がセットで行われている<ref name="terada-washio96"/><ref>Grumbach, Lisa. (2005) <i>Sacrifice and Salvation in Medieval Japan: Hunting and Meat in Religious Practice at Suwa Jinja</i>, Stanford University, 2005, pp. 170-176, 201-202.</ref>。なお、御射山祭は本来、水霊信仰・稲作信仰を原点とする下社固有の(狩猟・供犠を含めたであろう)農耕祭事であり、稲作においては後進であった上社がこれを馬術・狩猟中心の祭りとして模倣したとも考えられている<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、102-103頁。</ref>。
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昔は狩猟儀礼や動物供犠は諏訪だけでなく、ほかの地域にも行われていた。[[無住|無住一円]]の『[[沙石集]]』「生類を神に供る不審の事」から、鎌倉時代には諏訪社のほかに[[宇都宮市|宇都宮]]([[宇都宮二荒山神社|二荒山神社]])にも鹿と鳥が贄として捧げられたことが分かる{{efn|「信州の諏方・下野の宇都の宮、狩を宗として鹿・鳥なんどを手向くるも此のよしにや。大権の方便は凡夫知るべからず。(中略)凡そは殺生をせずして、仏法の教への如く戒行をもまぼり、般若の法味を捧げんこそ、まことには神慮に叶ふべき事にて侍れ。」<ref>無住『[https://books.google.co.jp/books?id=h96avob5jhMC 校註 沙石集]』藤井乙男編、文献書院、1928年、22頁。</ref>}}。また、最近までは[[西宮神社]]、[[松尾大社]]、[[熊野大社]]、[[熱田神宮]]、[[阿蘇神社]]等にも形ばかりの御狩神事があった<ref name="kanai21-22">金井典美「諏訪神社神官考」『諏訪信仰史』名著出版、1982年、21-22頁。</ref>。しかし、仏教の浸透とともにしだいに動物の殺生や肉食が敬遠されるようになり、諏訪にだけこの風習が生き残った。こうして狩猟を司る諏訪明神は「肉食を許す神」として篤い信仰を集めるようになった<ref>『神長官守矢史料館のしおり』 茅野市神長官守矢史料館編、2017年、第三版、27頁。</ref><ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、110-111頁。</ref>。
 
[[鎌倉幕府]]が1212年([[建暦]]2年)に[[守護]]・[[地頭]]の[[鷹狩]]を禁じた際、「信濃国諏方大明神御贄鷹」のみを除外し、その後さらに五月会と御射山祭の場合のみ許すといった指令を下したが、この禁止令は中々順守されなかった。むしろ、これを契機として諸国の武士が各地で諏訪神社を勧請し、その御贄鷹だとして「諏訪流鷹狩」を行った<ref>Grumbach, Lisa. (2005) <i>Sacrifice and Salvation in Medieval Japan: Hunting and Meat in Religious Practice at Suwa Jinja</i>, Stanford University, 2005, pp. 170-176, 185.</ref><ref name="kanai21-22"/><ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、836頁。</ref>。また、何らかの理由で肉を食料とせざるを得ない人々(穀類が中々生産できない山間地に住む人々など)には上社の社家が頒布していた「鹿食免(かじきめん)」と「鹿食箸」と呼ばれる肉食の免罪符は人気があった。上社が毎年[[御師]]を派遣して、諸国を巡ってこれを配った<ref>『神長官守矢史料館のしおり』 茅野市神長官守矢史料館編、2017年、第三版、28頁。</ref><ref>『諏訪市史 中巻 (近世)』 諏訪市史編纂委員会編、諏訪市、1988年、874頁。</ref>。これに加えて、殺生罪を取り除く「諏訪の勧文(かんもん)」と呼ばれる4句の[[偈]]は猟師の滅罪の唱文として拡まった<ref>Grumbach, Lisa. (2005) <i>Sacrifice and Salvation in Medieval Japan: Hunting and Meat in Religious Practice at Suwa Jinja</i>, Stanford University, 2005, pp. 170-176, 203-210.</ref><ref>武井正弘「祭事を読む―諏訪上社物忌令之事―」『飯田市美術博物館 研究紀要』、9(0)、1999年、128頁。</ref>。
 
<blockquote>業尽有情(ごうじんうじょう)<br/>
雖放不生(すいほうふしょう)<br/>
故宿人身(こしゅくじんしん)<br/>
同証仏果(どうしょうぶっか){{efn|「故宿人天 同証仏果」「故宿人天 則証仏果」「故宿人中 同証仏果」等というバリエーションもある。}}<br/>
([[業]]尽の[[衆生|有情]] 放つといえども生きず 故に人身に宿りて 同じく[[成仏|仏果]]を証せよ)</blockquote>
 
===神仏習合===