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***'''{{linktext|味}}'''(み、{{lang-sa-short|rasa}}、<small>ラサ</small>) - 味覚の対象
***'''{{linktext|触}}'''(そく、{{lang-sa-short|sparśa}}、<small>スパルシャ</small>) - 触覚の対象(以上を[[五境]]という(同上){{sfn|櫻部・上山|2006|p=索引頁「仏教基本語彙(1)~(10)」}}{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=851}}
***'''無表色'''(むひょうしき、{{lang-sa-short|avijñapti-rūpa}}、<small>アヴィジュニャプティ・ルーパ</small>)もしくは'''無表業'''(むひょうごう、{{lang-sa-short|avijñapti-karman}}、<small>アヴィジュニャプティ・カルマン</small>){{sfn|櫻部・上山|2006|p=索引頁「仏教基本語彙(9)」}} - 行為者の内面に潜み他から認知されないような行為{{sfn|櫻部・上山|2006|p=121}}。説一切有部の伝統的解釈によれば「悪もしくは善の行為を妨げる習性」で、具体的には律儀、不律儀、非律儀不律儀の三種であり、いわゆる「戒体」と同じものである{{sfn|青原|2017|p=847}}。物質的存在でありながら五感覚器官のいずれの対象ともならず{{sfn|櫻部・上山|2006|p=67}}、色蘊に属しながらしかも法処(法界)に含められる特別な法{{sfn|櫻部・上山|2006|p=121}}と説明されることもあるが、伝統的な教学では法処に分類しない<ref>松浦僧梁(注)『[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818997/12?tocOpened=1 七十五法名目 : 冠註]』、1885年10月、法蔵館。</ref>。強力な善あるいは悪の行為が行われるとき(つまり業(身表業・語表業)が造られるとき)に、その業の余勢(表面から窺い知れない)が行為の終了後も行為者自身の上にとどまること{{sfn|櫻部・上山|2006|p=122}}とも理解されるが、明治大正期より、近代仏教学者において流行した解釈であり、文献学的な論証によって確立した解釈ではない{{sfn|青原|2017|p=844-843}}。
**'''[[心 (仏教)|心]]法'''(しんぼう(、しんぽう)、citta dharma、チッタ・ダルマ)(1)
***'''[[心 (仏教)|心]] (識・意)'''(しん、{{lang-sa-short|citta}}、<small>チッタ</small>)
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*浄土宗大辞典刊行会 編『浄土宗大事典』(山喜房仏書林、1980年)ISBN 978-4-7963-0903-5
*{{Cite journal|和書|author=[[ウ・ウェープッラ]]|author2=[[戸田忠]] |title=アビダンマッタサンガハ(新装版) |date=2013-09 |publisher=中山書房仏書林 |isbn=978-4-89097-076-6 |ref={{harvid|ウェープッラ&戸田|2013}}}}
* {{Cite journal |last=青原 |first=令知 |title= いわゆる「無表業の誤解」について |url=https://doi.org/10.4259/ibk.65.2_848 |journal=印度學佛教學研究 |volume=65 |issue=2 |date=2017 |publisher=日本印度学仏教学会 |pages=848-841 |ref={{SfnRef|青原|2017}} }}
 
== 関連項目 ==