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== 来歴・人物 ==
[[享栄高等学校|享栄商業]]では、[[第13回選抜中等学校野球大会|1936年]]・[[第14回選抜中等学校野球大会|1937年]]と二年連続で[[選抜高等学校野球大会|春の甲子園]]に出場するが、いずれも一回戦で敗退した。
 
{{by|1938年}}に花の13年組の一人として、[[川上哲治]]・[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]・[[吉原正喜]]らとともに[[読売ジャイアンツ|東京巨人軍]]へ入団する。しかし、当時の巨人の外野は[[伊藤健太郎 (野球)|伊藤健太郎]]・[[呉波]]・[[中島治康]]らで層が厚かったことから出場機会に恵まれず、21試合の出場でわずか1[[安打]]に終わった。
 
{{by|1939年}}に[[名古屋金鯱軍|金鯱軍]]に移籍すると、開幕当初は[[捕手]]を務めるが、5月に入ると三番[[左翼手]]のレギュラーに定着し、する。シーズンでは[[打率]].241を打って打撃成績29位に入り、チームトップの34[[打点]]を記録した。{{by|1940年}}は開幕当初はクリーンナップを任されるも低打率に苦しみ、4月半ばに[[松竹ロビンス|ライオン軍]]にトレードされる。ライオンでは三番[[右翼手]]のレギュラーとなるものの調子が上がらず、6月以降は[[井筒研一]]・[[村上重夫]]に定位置を奪われがちになり、シーズンを通じて打率.167161に終わった。{{by|1941年}}は[[投手]]にコンバートされ12試合に[[先発投手|先発]]するがわずか1勝(9敗)に留まり、同年末に退団した。
 
戦後の{{by|1947年}}に[[国民野球連盟]]が発足すると、宇高レッドソックス([[熊谷レッドソックス]])でプレーしている。