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[[周代]]までの深圳は[[百越]]部族の支族とされる南越部族の居住地であった。中国の[[史書]]に登場するのは[[紀元前214年|前214年]]の[[秦|秦代]]であり、[[嶺南 (中国)|嶺南]]地区に南海、[[桂林]]、象郡の三郡が設置された際に深圳は南海郡に区分され中原文化との交流が開始された。
 
現在の深圳市に相当する行政区分が史書において最初に登場する出来事は、[[331年]]の'''[[宝安区|宝安県]]'''設置である。[[東晋]]はこの地に6県を設置し、それを管轄する郡として東官郡を設置し現在の深圳市、[[東莞市]]及び[[香港]]がある一帯を管轄しており、群治が宝安県(現在の南頭地区)に設置された。[[唐]]の至徳二年([[757年]])、宝安県は一旦廃止され[[東莞市|東莞県]]に編入された。
 
[[北宋|宋代]]になると旧宝安県一帯は南方海上交易の拠点となり、また製塩業や米・茶葉栽培で繁栄し、[[元 (王朝)|元代]]には真珠の産地として史書に登場している。更に[[明|明代]]になると東莞守御千戸所ならびに大鵬守御千戸所が設置されると共に、[[1573年]]、旧宝安県の部分に'''新安県'''が設置され華南地区の海上交通や政治の中心となっていた。
 
[[清|清末]]になると[[南京条約]]や[[北京条約]]により、新安県の一部であった[[香港島]]及び[[九龍半島]]を[[イギリス]]が植民地とし、さらに[[新界]]も[[租借]]されるようになり新安県が分割されると同時に、新界との境界付近の深圳墟という[[墟市]](定期市の建つ町)が香港との国境の街として栄えるようになった。深圳墟は現在の深圳中心街の東門商業区にあたる。[[中華民国]]が成立すると[[1913年]]に新安県は宝安県に改称された。
 
[[1953年]]、[[広深線]]の開通により、深圳地区の人口は増大し、商工業が発展していくこととなる。また同年県政府を従来の南頭より東に10キロメートルほどの深圳墟へ移動し、現在の都市構成の土台が成立している。