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明治20年([[1887年]])、「南海男」から「直寛」に改名した。この年、34歳で高知[[県会議員]]に当選する。高知県内で精力的に伝道を始め、政治家としては官僚主義を痛烈に批判する演説を続ける。
 
1887年12月26日で、明治政府への建白書を提出するために上京した坂本は、[[京橋]]の[[星亨]]邸で退去命令を拒否したために、片岡健吉、武市安哉と共に[[中央警察署 (東京都)|京橋警察署]]に[[保安条例]]違反で逮捕される。その後、[[警視庁]]に送られ、[[東京地方裁判所]]で軽禁固2年6か月の判決を受けて、[[石川島監獄]]に投獄される。<ref>{{Harvnb|合田|2004|p=250-252}}</ref><ref group="注釈">石川島監獄の劣悪な環境にあって、極限状態で信仰が深められたと言われる。({{Harvnb|守部|2010|pp=51}})</ref>1889年(明治22年)に[[大日本帝国憲法]]の発布にあたり[[大赦]]<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2944943/4 『官報』第1699号、明治22年3月2日、p.18]</ref>により石川島監獄から出獄し、高知に帰る。
 
{{main|三大事件建白}}