「ミラン・バロシュ」の版間の差分

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[[チェコ]]の[[FCバニーク・オストラヴァ]]でデビュー。2000年の[[シドニーオリンピックにおけるサッカー競技・男子|シドニーオリンピック]]に出場したが、欧州ではほとんど無名の若手選手だった。だが、当時[[リヴァプールFC]]の監督だった[[ジェラール・ウリエ]]の目に留まり、2002年に同クラブへ移籍。
 
2004年、[[UEFA EURO 2004|EURO]]で[[得点王]]に輝く。リヴァプールのエースだった[[マイケル・オーウェン]]が[[レアル・マドリード]]に移籍した後、その後継者として期待され、またシセが怪我の為長期離脱した為、モリエンテス加入までチーム唯一のストライカーであった<ref>{{cite web|first=Ian|last=Doyle|url=http://www.highbeam.com/doc/1G1-124647257.html|title=Baros Secures Reds Win, but Can He Silence His Doubters?|work=Daily Post|location=Liverpool|date=15 November 2004|accessdate=17 January 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160910062106/https://www.highbeam.com/doc/1G1-124647257.html|archivedate=2016年9月10日|deadlinkdate=2019年2月}}{{subscription required|via=Highbeam Research}}</ref>。モリエンテス加入後は徐々に出場機会を減らしたが、モリエンテスが出場出来ないチャンピオンズリーグ決勝では先発、途中交代で退いた<ref>{{cite news| url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/4580077.stm|title=AC Milan/Liverpool player ratings|work=BBC Sport|date=25 May 2005|accessdate=13 May 2017}}</ref> 。2005年に[[ベニテス]]監督に放出されるような形で[[アンフィールド]]を去る事になった。この際、[[オリンピック・リヨン]]、[[バレンシアCF]]、[[シャルケ04]]などビッグクラブが揃ってバロシュの獲得を目指したが、結局は[[アストン・ヴィラFC]]へ移籍した。しかしアストン・ヴィラに移籍後は、リヴァプール所属最終年から指摘されていた怠慢なプレーが目立つようになり、期待していた多くのファンの失望を買った。
 
2007年1月、[[ヨン・カリュー]]とのトレードでリヨンへ移籍し、再びウリエの指揮下に入ることになった。しかしながら定位置を確保したとは言い難く、監督交代後も同様であった。2008年1月、[[ポーツマスFC]]へ[[期限付き移籍]]したものの、ここでもインパクトを残せずに終わる。