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だが安政5年([[1858年]])、家定が重態となると、南紀派の譜代大名は[[彦根藩|彦根藩主]][[井伊直弼]]を[[大老]]に据えて、6月に家定の名で後継者を徳川慶福とすることが発表された。これについては南紀派による画策であると言われているが、家定自身も[[廃人]]もしくはそれに近い重態ではあったものの、完全に意思能力が失われていたわけではないため、本人の意向で自分の対抗馬である慶喜を嫌って個人的に気にかけていた慶福を指名したとする見方もある。家定の側[[小姓]]で後に[[勘定奉行]]などを歴任した[[朝比奈閑水]]の回想によれば、家定は「自分より慶喜の方が美形で慶喜が登城すると大奥が騒ぐ」という理由で慶喜に反感を抱いていたと記されている。[[久住真也]]「幕末の将軍」([[講談社]])によれば一橋派の言い分自体が家定を「暗愚、愚昧、病弱」扱いするに等しいもので「まだ若く世子誕生の見込みもある」と認識していた家定は一橋派を憎悪していたという。いずれにしても南紀派の勝利に終わった事実は間違いなく、7月に家定が没すると、慶福は「家茂」と改名して新しい将軍となった。
 
同年6月、一橋派による京都工作が功を奏し、朝廷より「英明・年長」を兼ね備えた者を将軍継嗣とすべき、とする勅書が幕府に下ったが、志賀某がこれを10日間以上に渡り隠匿し続け、結果勅書の指示が反映されない形で家茂が後継者になった、とする風説が当時流れたが、勅書が下ってからの経緯については、どこまでが真実なのか、詳らかではない。
 
家茂を将軍とした井伊直弼は、[[徳川慶頼]]([[田安徳川家|田安家]]当主)を形だけの[[将軍後見職]]に立てて、一橋派を初めとする反対派の粛清([[安政の大獄]])に乗り出す。だが、井伊は[[桜田門外の変]]で暗殺され、斉彬の弟[[島津久光]]の率兵上京による[[文久の改革]]で一橋派は復権する。このときに一橋慶喜が[[将軍後見職]]に、松平慶永が[[政事総裁職]]に就任、慶喜は家茂の死後に15代将軍に就任することになった。