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{{中華圏の人物
| 名前=陶成章
| 画像=[[File:Tao Chengzhang.jpg|200px]]
| 画像の説明=
| 出生=[[1878年]][[1月24日]]<br />([[清]][[光緒]]3年12月22日)
| 死去=
| 出身地={{QIN1890}}[[浙江省]][[会稽]]
| 職業=
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'''陶 成章'''(とう せいしょう、[[1878年]][[1月24日]] - [[1912年]][[1月14日]])は[[清|清末]]の革命家。[[光復会 (清国)|光復会]]を組織し主要メンバーとなった。字は'''希道'''、号は'''煥卿'''。{{仮リンク|会稽県|zh|会稽县}}(現:[[柯橋区]])陶堰西上塘村出身<ref name=history>{{Cite web|url= http://lishi.zhuixue.net/m/view.php?aid=120428 |title=陶成章简介_浙江省人物志 |publisher= 中国历史网 |accessdate=2019-02-23}}</ref>。
==生涯==
出身の陶
[[1907年]]、徐錫麟が安慶にて武装蜂起に失敗すると、陶成章も清朝より指名手配され[[マレー半島]]に逃亡し、当地での革命宣伝活動に従事した。[[1908年]]に三度目の訪日、同盟会の機関紙である『[[民報]]』の編集に従事した。その後[[孫文]]が独断で日本政府の資金援助を受けたことで同盟会内部は分裂、[[1910年]]には章炳麟等と共に光復会を再結成し、章炳麟が会長に、陶成章が副会長に就任した。[[武昌起義]]が発生すると上海に戻り旧光復会を召集、上海の革命活動に参加すると同時に[[杭州市|杭州]]の革命運動を計画した。杭州での革命が達成されると浙江省臨時参議会議長に就任している。
[[1912年]]1月14日、病気療養のため[[上海フランス租界]]の金神父路{{仮リンク|上海交通大学医学院附属瑞金医院|label=広慈医院|zh|上海交通大学医学院附属瑞金医院}}に入院中、光復会の元会員である
著書に『浙案紀略』、『中華民族力務消長史』等。[[湯志鈞]]により『陶成章集』も編纂されている。
==脚注==
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:とう せいしよう}}
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