「百済王善光」の版間の差分

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'''百済王 善光'''(くだらのこにきし ぜんこう)は、[[飛鳥時代]]の[[百済]][[王族]]。名は'''扶余勇・禅広'''・'''余禅広'''など複数が確認されている。百済の第31代国王・[[義慈王]]の子。[[冠位・位階制度の変遷#冠位四十八階|冠位]]は正広肆、贈正広参。
 
== 経歴 ==
[[舒明天皇|舒明朝]]に百済国王・義慈王によって兄・[[扶余豊璋|豊璋]]と共に百済から日本人質遣わされ[[天皇宮家]]に近侍した。その後、[[斉明天皇]]6年([[660年]])の百済の滅亡や、[[天智天皇]]元年([[662年]])の豊璋の百済帰国、天智天皇2年([[663年]])の[[白村江の戦い]]などがあったが、善光は帰国せず日本に留まる<ref name="sng">『続日本紀』天平神護2年6月28日条</ref>。白村江の戦いにより帰国が不可能となった善光は、天智天皇3年([[664年]])居住地を[[大阪#「大坂」地名発生以前の大坂|難波]]に定められた<ref>『日本書紀』天智天皇3年3月条</ref>。
 
[[天武天皇]]4年([[675年]])[[元旦]]の儀では[[新羅]]の仕丁らと並んで薬・珍物を献上した<ref>『日本書紀』天武天皇4年正月1日条</ref>。[[朱鳥]]元年([[686年]])天武天皇の葬儀において、孫の[[百済王郎虞|良虞]]が善光の代理として[[誄]]を宣べている<ref>『日本書紀』朱鳥元年9月30日条</ref>。
 
[[持統天皇|持統朝]]に入ると[[百済王氏|百済王]]の[[氏姓]]を与えられると共に<ref name="sng" />、持統天皇5年([[691年]])までに正広肆(のちの三位相当)の[[冠位・位階制度の変遷#冠位四十八階|冠位]]を受けており<ref>『日本書紀』持統天皇5年正月7日条</ref>、日本において廷臣化し、既存の主要[[豪族]]並の待遇を受けていた様子が見られる。なお同年には加封100戸を受け既存分と合わせて[[封戸]]200戸を与えられた<ref>『日本書紀』持統天皇5年正月13日条</ref>。持統天皇7年([[693年]])正月に正広参の[[贈位]]と賻物を受けており<ref>『日本書紀』持統天皇7年正月15日条</ref>、この少し前に没したと思われる
 
== 系譜 ==