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{{出典の明記|date=2019年2月24日 (日) 13:51 (UTC)|ソートキー=人1394年没}}
'''河野 通義'''(こうの みちよし、[[応安]]2年/[[正平 (日本)|正平]]24年([[1369年]])-[[応永]]元年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]]([[1394年]][[12月9日]]))は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[室町幕府]]初期にかけての[[守護大名]]。[[河野通堯]]の子で[[河野通久|通久]]の父。幼名は亀王丸。
 
[[康暦]]元年/[[天授 (日本)|天授]]5年([[1379年]])、[[室町幕府]]の命を受けて[[細川頼之]]討伐に乗り出した父・通堯が却って頼之に攻め滅ぼされたために11歳で家督を継承、翌年には[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]によって[[伊予国|伊予]][[守護職]]に任じられた。後に幕府と頼之は和睦するが、守護職は亀王丸(通義)に[[安堵]]された。[[至徳 (日本)|至徳]]3年/[[元中]]3年([[1386年]])、[[元服]]して'''通能'''(みちよし)と名乗り、その後「通義」と字を改めた。[[嘉慶 (日本)|嘉慶]]2年/[[元中]]5年([[1388年]])には伊予守に任ぜられている。
 
ところが、応永元年(1394年)8月になって[[京都]]において突如病に倒れる。通義の室は懐妊中であったために、弟の[[河野通之|通之]]に対して生まれた子が男子であればその子が16歳に達した時に後を継がせることを条件に家督を譲り、その年のうちに26歳の若さで没した。生まれた子は男子であり、通之は後になって約束通りにその子(通久)に家督を譲ったものの、通之の子供たちがこれに反発し、通義の子孫である[[河野氏]]宗家と通之の子孫である庶流の[[予州家]]の対立の原因となった。
 
== 参考文献 ==