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祖父の藤村政徳は[[盛岡藩]][[武士|士]]であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は[[明治維新]]後、[[北海道]]に渡り、事業家として成功する。
 
操は、[[1886年]](明治19年)に北海道で胖の長男として生まれ、12歳の[[北海道札幌南高等学校|札幌中学]]入学直後まで北海道札幌で過ごした。単身、東京へ移り、[[開成中学校・高等学校|開成中学]]から一年[[飛び級]]での[[京北中学校・高等学校|京北中学]]に編入<ref>[[#asakura 2005|朝倉・2005年]] 32頁。</ref>。この間の[[1899年]](明治32年)に父・胖が死亡{{efn|胖の死は、自殺とも病死といわれる。伊藤整『日本文壇史』7巻に自殺説が書かれているが、根拠は不明とのこと(平岩・2003年)。}}、母や弟妹も東京に移り、同居するようになる。1902年(明治35年)、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]に入学。
*父の藤村胖は、[[北海道銀行|屯田銀行]]頭取である。
*弟の[[藤村朗]]は、[[建築家]]で[[三菱地所]]社長となる。朗の妻は[[櫻井房記]]の長女である<ref>『人事興信録 第5版』、さ91頁。</ref><ref>『人事興信録 第14版 下』、フ79頁。</ref>。
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墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[青山霊園]]。
 
藤村が[[ミズナラ]]の木に記した遺書は、まもなく[[警察]]により削り取られたという(後に木も伐採)。それを撮影した写真が現存しあり、{{いつ範囲|date=2017年8月|現在でも}}{{要出典|華厳滝で[[お土産]]として販売されている。|date=2017年7月}}<!---平岩の著書にもそう書かれているが、「現在」は不明。--->
 
=== 遺書「巌頭之感」 ===
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=== 自殺の原因 ===
自殺直後から藤村の自殺については様々に論じられ、そのほとんどは、藤村の自殺を国家にとっての損失という視点から扱ったものだった<ref>和崎光太郎「近代日本における『煩悶青年』の再検討 1900年代における<青年>の変容過程」pp.22-23。</ref>。
自殺の原因としては、遺書「巌頭之感」にあるように哲学的な悩みによるものとする説、自殺前に藤村が失恋していたことによるもの<ref>{{要追加記述範囲|[[宮武外骨]] 『滑稽新聞』|date=20171903年7月20日:平岩・2003年、p69-09-19|title=出版日時やページ番号70に引用不明ある}}</ref>とする説に大別される。
藤村の恋愛の相手として4人の女性の名が挙がった。[[菊池大麓]]の娘である松子とその姉の多美(民)、馬島あい子とその姉の千代であるが、死後80年以上経って、藤村が自殺の直前に手紙とともに渡した本という物的証拠が出てきたため、恋の相手は馬島千代ということで落着している<ref>[[#domon 2007|土門・2007年]]p186-188。</ref>。[[朝日新聞]](1986年7月1日)<ref>『[[週刊朝日]]』1986年7月11日号、[[安野光雅]]『わが友の旅立ちの日に』([[山川出版社]]、2012年)pp.116-122も参照。</ref>によれば、5月22日の自殺直前、藤村は突然、馬島家を訪ね、千代に手紙と[[高山樗牛]]の『[[滝口入道]]』を手渡した。手紙には「傍線を惹いた箇所をよく読んで下さい」と書いてあり、本には藤村の書き込みがあった。千代に縁談があったので、藤村が千代を訪ねたことは秘密とされた。手紙と本も焼却されたと考えられていたが、千代が1982年に97歳で亡くなった後、子息の崎川範行([[東京工業大学]]名誉教授)が遺品の中から『滝口入道』と手紙を見つけ、[[日本近代文学館]]に寄贈することになった<ref>藤村の書き込みについては『別冊太陽 日本人の辞世・遺書』(平凡社、1987年)に記述がある。</ref>。
なお、「失恋説」については、友人の南木性海は藤村の11通の手紙を公表し、否定している。南木に限らず、藤村をよく知る友人らはみな一様にこの「失恋説」を否定している<ref>[[#domon 2007|土門・2007年]] p186。</ref>。
 
===ホレーショの哲学===
遺書にある「ホレーショの哲学」の[[ハムレット#登場人物|ホレーショ]]は、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]『[[ハムレット]]』の登場人物であろう(藤村は『ハムレット』を原文で読んでいた)。同作中でホレーショが哲学を語るわけではないが、ホレーショにハムレットが次のように語るシーンがある(第1幕、第5場、166-167行):''There are more things in heaven and earth Horatio, Then are Dream't of, in your philosophie''<ref>このハムレットのセリフは[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]の『[[マンフレッド]]』の冒頭にも引用されている。</ref>.(坪内逍遙訳:「此天地の間にはな、所謂哲学の思も及ばぬ大事があるわい」<ref>{{cite web |title = ハムレット 坪内逍遙譯 |url =
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/873484/38 |date = 1909 |editor = 坪内逍遙 |publisher = 早稲田大学出版部 |edition = 初版 |accessdate = 5 Aug. 2017}}</ref>。)。遺書5行目の「不可解」に通じる[[不可知論]]的内容を含むセリフである。"your philosophie"の"your"を二人称と解釈し、「ホレーショの哲学」という一節になったのであろう。しかし、この"your"は、話し手本人も含まれる「一般人称」(general person)で、「世にいわゆる」の意味である<ref>柴田耕太郎『英文翻訳テクニック』ちくま新書、1997年、p53-54。</ref>(先に引用した逍遙訳もそのように訳している)。遺書のこの箇所を捉えて藤村による誤訳」(藤村は『ハムレット』を原文で読んでいた)をあげつらう向きもある<ref>小田島雄志
『シェイクスピア名言集』 岩波書店〈岩波ジュニア新書〉、1985年、p208。</ref>が、これより以前に[[徳富蘆花]]<ref>徳冨蘆花『思出の記』(民友社、1901年、p254。)に「ホラシオ、天地のことは'''卿が理学'''に説き尽されぬ事もあるものぞ」(卿には「おんみ」とルビがあり、あなたの意味)[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/885690/129]。土方、p164。</ref>や[[黒岩涙香]]<ref>黒岩涙香『天人論』(朝報社、1903年、P28)に名言の引用で「ホレーショよ、天地には'''汝が哲学'''にて夢想し得ざる所の者あり 砂翁のハムレツト」[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899493/18]。奥付は1903年5月14日付で、藤村が投身する直前の刊行。</ref>も同様(yourを二人称)に訳しているし、それらの訳を藤村が参照した可能性もある<ref>[[#domon 2007|土門・2007年]] p159-160。</ref>。なお、[[西洋古典学]]者の[[逸身喜一郎]]は、「ホレーショ」はローマ詩人[[ホラティウス]](英文表記:Horace)ではないかと指摘している<ref>[[逸身喜一郎]]『ラテン語のはなし』[[大修館書店]]、2000年、p136。同「ホレーショの哲学」『文学』1992年冬号。</ref>。
 
=== 自殺の波紋 ===
彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた[[夏目漱石]]や学生たちに(在学中の[[岩波茂雄]]にも)大きな精神的打撃影響を与えた<ref>[[#asakura 2005|朝倉・2005年]] 39頁。</ref>。在学中の[[岩波茂雄]]はこの事件が人生の転機になった。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、[[神経衰弱]]となった一因ともいわれる<ref>朝日新聞出版刊 新マンガ日本史43号「夏目漱石」。</ref>。
 
当時のメディアでも、『[[萬朝報]]』の主催者であった[[黒岩涙香]]が「藤村操の死に就て」と題した講演筆記<ref>[[#asakura 2005|朝倉・2005年]] 14頁。</ref>や叔父那珂道世の痛哭文を載せた後、新聞・雑誌が「煩悶青年」の自殺として多くこの事件を取り挙げた結果、[[姉崎正治]]ら当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされるなど、「煩悶青年」とその自殺は社会問題となった<ref> [[和崎光太郎]]「近代日本における『煩悶青年』の再検討 1900年代における<青年>の変容過程」教育史学会編『日本の教育史学』(第55集、2012年10月)pp.22-24。</ref>。
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:余の視るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う<ref>[[#asakura 2005|朝倉・2005年]] 44頁。</ref>。
:「趣味の何物たるをも心得ぬ下司下郎の、わが卑しき心根に比較して他を賤しむに至っては許しがたい」「ただその死を促すの動機に至っては解しがたい。去れども死その物の壮烈をだに体し得ざるものが、如何にして藤村子の所業を嗤い得べき。かれらは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味い得ざるが故に、たとい正当の事情のもとにも、到底壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。」<ref>[[#asakura 2005|朝倉・2005年]] 45頁。</ref>
 
漱石はこれ以外にも『文学論』第2編3章や寺田寅彦あて書簡(1904年2月9日)に記した「水底の感」で藤村に言及している。
 
==== 偽書の登場 ====
[[1907年]]『煩悶記』也奈義書房出版、[[岩本無縫]]篇。内容は藤村操が実は生き延びて書いたとする[[偽書]]。出版直後に発売禁止処分になる。
 
藤村は自殺未遂後、下山し、海賊船で世界を巡り、[[パリ]]で悟りを開く。それを原稿にまとめて知人に託したものをまとめたものとする。「予は迷ひ初めたり。予は疑ひ初めたり。予は泣きたり、煩悶したり」と始まる。内容は[[社会主義]]や[[無政府主義]]の強い影響を受けており、発禁処分もそのためとも言われる。現在、3冊しか存在が確認されていない希少本であり、神田古本まつりに出展された際には、147万円の高値がついたことがある。そのうちの一冊は、[[野間光辰]]が所有していたことが判明し、また別の一冊を[[谷沢永一]]が所有しており、その全文が『遊星群 時代を語る好書録 明治篇』<ref>[[谷沢永一]] 『遊星群 時代を語る好書録 明治篇』 [[和泉書院]]、2005年 ISBN 978-4757602878</ref>に掲載されている<ref>[http://www.asahi.com/culture/entertainment/news/TKY200510140290.html 朝日新聞 2005年10月15日]</ref>{{efn|現在、谷沢から関西大学図書館に寄贈された煩悶記の原著が同図書館の「谷澤永一コレクション」に保存されている。[http://web.lib.kansai-u.ac.jp/library/library/collection/tanizawa_int.html 特別蔵書 - コレクション - 谷澤永一コレクション|関西大学図書館]を参照。}}。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{Anchors|hiraiwa 2003}}平岩昭三、2003、『検証藤村操―華厳の滝投身自殺事件』  不二出版、2003年5月、ISBN 978-4-8350-1523-1
* {{Anchors|domon 2007}}土門公記、2007、『藤村操の手紙-華厳の滝に眠る16歳のメッセージ』  下野新聞社、2002年7月、ISBN 4-88286-175-5
* {{Anchors|asakura 2005}}朝倉喬司、2005、『自殺の思想』 [[太田出版]]、2005年、ISBN 4-87233-945-2
*『人事興信録 第5版』人事興信所、[[1918年]](大正7年)[[9月15日]]発行。
*『人事興信録 第14版 下』人事興信所、昭和18年([[1943年]])10月1日発行。