「上杉治憲」の版間の差分

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鷹山存命中の藩政改革は、重定の寵臣で専制的な[[森利真|森平右衛門]]を粛清した[[竹俣当綱]]をリーダーとして産業振興に重きを置いた前期の改革と、前期の改革後の隠居から復帰した[[莅戸善政]]をリーダーとして、財政支出半減と産業振興をはかった「寛三の改革」と呼ばれる後期の改革に大別される。
 
米沢藩では[[宝暦の飢饉]]において、多数の領民が餓死、あるいは逃亡し、宝暦3年(1753年)からの7年間に9699人の人口減少を経験している。鷹山の治世において起きた[[天明の大飢饉]]においては、天明3年からの7年間に4695人の人口減少に食い止めており、鷹山の改革は実効を上げていたことがわかる。ただし、改革のお陰で飢饉の時も餓死者が藩内から出なかったという評判は、明らかに誇張である。
 
鷹山の推奨した[[ウコギ]]の垣根も、若葉は食用で苦味があるが、高温の湯や油で調理して現在でも食べられており、根の皮は五加皮という滋養強壮剤になる。