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幕府旗本の[[榊原政喬]](500石800俵)の長男として誕生。母は榊原直勝([[姫路藩]]榊原家の家臣)の娘。[[延宝]]8年([[1680年]])閏8月27日にはじめて[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]に拝謁した。[[元禄]]4年([[1691年]])12月5日に家督相続し、小普請(無役の小旗本)に列する。元禄5年([[1692年]])3月25日に桐間番に列し、元禄6年([[1693年]])7月2日には近習番、25日には小納戸役となり、綱吉の側近くに仕えた。しかし綱吉の不興を買ったか、元禄7年([[1694年]])2月2日に突然小普請入りにされたのち、閏5月9日から書院番となった。元禄10年([[1697年]])7月26日切米800俵が[[相模国]][[鎌倉郡]]・[[下総国]][[芳賀郡]]に800石の領地に改められ、すでに領している[[上野国]][[邑楽郡]]・[[山田郡 (群馬県)|山田郡]]500石と合わせて都合1,300石を領した。その後、火事場目付となり、元禄13年([[1700年]])1月23日までつとめた。
 
元禄14年([[1701年]])3月14日、[[赤穂藩]]主[[浅野長矩]]が江戸城中で[[吉良義央]]に刃傷に及んだため、赤穂藩は[[改易]]処分されることとなった。3月28日政殊と[[荒木政羽]](1,500石)が[[赤穂城]]の収城目付(幕府常設役職「[[目付]]職とは異なる)となっに任じられた。代官の[[石原正氏]]、[[岡田俊陳]]を合わせた四名は[[赤穂城]]ではに赴いた際、浅野家筆頭家老[[大石良雄]]から再三にわたってお家再興の嘆願を受けた。当初一同は無言を通していたが、大石の必死さを見かねた石原が荒木に対して幕閣への取りなしを打診し、荒木や榊原はこれを了承して大石は礼を述べた、と伝わ
 
[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])に[[日向国]][[延岡城]]から[[三浦明敬]]が転封となり、代わって[[牧野成央]]のものとなが入った際も、[[久留嶋通富]]とともに同地に入って城引渡しの任にあたる。正徳3年([[1713年]])8月28日[[書院番]]の組頭に昇進し、12月21日には[[布衣]](六位相当になったことを意味する)を着用することを許された。[[享保]]4年([[1719年]])8月15日には京都に派遣されて[[霊元天皇|霊元上皇]]付きとなった。享保5年([[1720年]])1月3日に従五位下周防守に叙任。享保6年([[1721年]])10月4日に職を辞して寄合(無職の旗本)に列した。
 
享保7年([[1722年]])5月18日に死去。[[湯島]]の凉智院に葬られた。法名は政殊。家督は長男の[[榊原政礼(旗本)|政礼]]が継いだ。
 
== 関連項目 ==