「九州平定」の版間の差分

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川内の泰平寺から北に向かった秀吉本隊は[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]、筑前筥崎([[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]][[箱崎 (福岡市)|箱崎]])に到着、[[筥崎宮|筥崎八幡宮]]で[[九州国分]]令を発した。
 
5月13日 秀吉は[[羽柴秀長]]へ全11ヶ条の「条々」を下す。大隅・日向両国の「人質」解放を命令したこと、[[長宗我部信親]]の戦死を悼み大隅国を長宗我部元親へ下す予定、[[島津義久]]降伏の様子、[[黒田孝高]]を添えて[[毛利輝元]]、[[小早川隆景]]、[[吉川元長]]を[[薩摩国]]に移陣させること、[[志賀親善]]の忠節に報い[[大友宗麟]]の判断で[[日向国]]内に城を与えること、[[大友義統]]と談議し[[豊後国]]内の不要な城の破却命令、日向国における大友宗麟の知行取分は大友宗麟の覚悟次第とすること、[[宇喜多秀家]]、[[宮部継潤]]、[[蜂須賀家政]]、[[尾藤知宣]]、[[黒田孝高]]に[[日向国]]、[[大隅国]]、[[豊後国]]の城普請および城わりを命令、[[豊前国]]の不要な城の破却と豊後・豊前国間に一城構築すべきこと、越権行為は成敗することを通達。「大友家文書録」
 
島津氏に関しての沙汰は、筥崎での九州仕置発表に先立つ5月中にすでになされていた。島津氏は、最終的に、九州において新たに獲得した地域の大部分を没収されたが、石田三成と伊集院忠棟による戦後処理の結果、薩摩・大隅の2国に日向の[[諸県郡]]が安堵された。義久(龍伯)に薩摩一国、義弘に大隅と日向諸県郡、義弘の子島津久保には諸県郡のうち[[真幸院]]があたえられた。家久は佐土原城を明け渡し、秀長とともに上方へのぼろうという矢先の[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]に急死した。病死とも毒殺ともいわれている<ref name=chro500/>が、家久の嫡子[[島津豊久]]には日向の都於郡(西都市)と佐土原が安堵された。
 
秀吉は秀長に、大友宗麟に日向一国を与えて[[伊東祐兵]]をその与力とし、[[伊集院忠棟に大隅]]領一郡を与え、残る全ての除く大隅を戸次川の戦いで嫡男信親を失った[[長宗我部元親]]に与える計画を伝えた。

これは、秀吉が秀長に充てた天正15年5月13日付の書状に残されているが、宗麟と元親はともに固辞したため実行にうつされなかった<ref name =oga>[[#大賀|大賀 (1999) pp.180-182]]</ref>。なお、宗麟はこの年の[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]、隠居の地とした豊後津久見(大分県[[津久見市]])において死去している。
 
[[ファイル:NanbanCarrack.jpg|right|thumb|180px|『[[南蛮屏風]]』([[狩野内膳]]筆)にみえるポルトガル船]]