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体格が良く、当時の教師によると高等部3年の時には身長175センチ体重80キロはあり{{Sfn|毎日新聞社会部|1995|p=34}}、部活動は[[柔道]]に打ち込んだ{{Sfn|高山|2006|p=37}}。[[1975年]](昭和50年)[[1月12日]]には、盲学校の生徒としては異例の柔道二段([[講道館]])を取得{{Sfn|高山|2006|p=48}}(一連のオウム事件の裁判が進むと[[講道館]]より段位を剥奪した事が記者会見で発表され、その様子がテレビや新聞各社、近代柔道誌などで報道された)。
 
[[毛沢東]]や[[田中角栄]]などにかねてから傾倒し{{Sfn|高山|2006|p=47}}、[[鍼灸]]免許も取得した松本は、この頃より「[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]卒の[[自由民主党 (日本)|自民党]]の政治家となりゆくゆくは[[内閣総理大臣]]の座に就くこと」を志すようになった<ref group="web" name="joyu1">{{Cite web|url=http://hikarinowa.net/kyokun/joyu/cat215/post-1.html|title=【2】オウムの犯罪と武装化:1988年~1995年 1.上祐総括:オウム入信から現在まで 上祐史浩個人の総括 オウムの教訓 -オウム時代の反省・総括の概要-|publisher=ひかりの輪|accessdate=2016-09-27}}</ref>{{Sfn|高山|2006|p=48}}{{Sfn|毎日新聞社会部|1995|p=41}}。なお、小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に[[生徒会長]]、寮長に立候補するが、全て落選している{{Sfn|高山|2006|pp=34-44}}<ref group="web" name="shitsui">{{Cite news |title=【「オウム教祖」判決】5:教祖  失意重ね、一線越す|newspaper=朝日新聞|date=2004-02-26|url=http://www.asahi.com/special/matsumoto/kizuato/040226.html|accessdate=2017-11-17|archivedate=2018-07-06|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180706025312/http://www.asahi.com/special/matsumoto/kizuato/040226.html}}</ref>。菓子で買収もやっていた<ref>NHKスペシャル取材班「未解決事件 オウム真理教秘録」 p.308</ref>。後の[[真理党]]の時のように先生の陰謀だと言い出したこともあった{{Sfn|高山|2006|p=36}}。19歳の時には盲学校の自治会で破壊的な主張を繰り返し、大混乱に陥れた{{Sfn|毎日新聞社会部|1995|p=39}}。
 
[[1975年]](昭和50年)3月(20歳)、熊本県立盲学校を卒業した{{Sfn|高山|2006|pp=48-49}}。
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=== 成人後 ===
==== 結婚 ====
[[東京大学]][[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|文科1類]]受験を目指すため、1975年(昭和50年)3月末に[[東京都]][[江東区]][[大島 (江東区)|大島]]、8月に[[品川区]][[戸越]]に移住するが、[[9月]]には八代市の実家に戻る{{Sfn|高山|2006|pp=53-54}}。[[1976年]](昭和51年)1月、熊本市[[春日 (熊本市)|春日]](現在の同市[[西区 (熊本市)|西区]]春日)に移住し長兄の[[漢方薬]]店の助手を務める{{Sfn|高山|2006|p=54}}。鍼灸は上手だったとの患者の証言がある<ref>「終末の教団(1)」1995年5月17日 [[読売新聞]]</ref>。3月、受験勉強をするために学生街のある熊本市[[黒髪 (熊本市)|黒髪町]](現在の同市[[中央区 (熊本市)|中央区]]黒髪)に下宿するが、5月にはまた実家に戻り、長兄の店を手伝う{{Sfn|高山|2006|pp=54-55}}。1976年(昭和51年)[[7)7月20日]]、長兄の店の元従業員が兄を[[侮辱]]したため[[頭部]]を殴打し負傷させ、[[9月6日]]、[[八代簡易裁判所]]にて1万5千円の[[罰金]]刑を受ける{{Sfn|高山|2006|p=55}}。この頃既に「弁護士か宗教家になりたい」と語っていた<ref name="anoko12"/>。
 
[[1977年]](昭和52年)春(22歳)に再上京し、[[代々木ゼミナール]](東京都渋谷区)に入学{{Sfn|高山|2006|p=55}}したが、東大受験は3度諦めている<ref group="web" name="shitsui"/>。[[広瀬健一]]によると麻原がこれを挫折と捉えていたかは不明で、[[自動小銃密造事件]]の際には広瀬らに大学受験の思い出を楽しそうに語っていたという。また、[[理系]]学問に興味があった<ref group="web">[http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/hirosesyuki.html オウム真理教元信徒広瀬健一の手記] 序章p.4 浄土真宗大谷派円光寺</ref>。[[英語]]や[[中国語]]も独学でやっていた<ref name="anoko12"/>。
 
[[1978年]](昭和53年)[[1)1月7日]]、代々木ゼミナールで知り合った[[松本知子]](旧姓石井)と[[結婚]]し、[[千葉県]][[船橋市]]湊町に新居を構え、そこに鍼灸院「松本鍼灸院」を開院{{Sfn|高山|2006|pp=65-66}}。同年[[9月15日]]「松本鍼灸院」を廃し、同市本町 に診察室兼[[漢方医学|漢方]][[薬局]]の「亜細亜堂」を開業{{Sfn|高山|2006|p=71}}。同年12月、船橋市[[新高根]]に新居を購入し移住{{Sfn|高山|2006|p=72}}。
 
この頃、鍼灸師として「病気の人を完治させることができない、無駄なことをしているのではないか」と悩み、無常感を抱き、[[四柱推命]]や[[気学]]を研究し始める<ref>降幡賢一『オウム法廷3』 p.57</ref>。だが運命を知っても運命を変えることはできないと考えて見切りをつけ、台湾[[鍼灸]]、[[漢方]]、[[断易]]、[[六壬]]を経て、[[奇門遁甲]]と[[内丹術|仙道]]にたどり着き、神秘体験を経験する。さらなる修行を求めて以前は嫌いだったという宗教に近づき、[[GLA (宗教法人)|GLA]]の[[高橋信次]]の書籍、[[中村元 (哲学者)|中村元]]や[[増谷文雄]]の翻訳仏典により、[[阿含経]]そして[[阿含宗]]に出会う<ref>麻原彰晃『超能力秘密の開発法』 p.26-42</ref>。
 
==== 薬事法違反で逮捕 ====
[[1980年]](昭和55年)7月、[[保険料]]の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求される{{Sfn|高山|2006|p=73}}。同年[[8月25日]](25歳)、根本仏教系の[[新宗教]]団体[[阿含宗]]に入信{{Sfn|高山|2006|p=93}}。
 
[[1981年]](昭和56年)2月、船橋市[[高根台]]に健康薬品販売店「BMA薬局」{{#tag:ref|BMAは「ブッダ・メシア・アソシエーション」の略{{Sfn|高山|2006|p=78}}。[[高山文彦 (作家)|高山文彦]]はこの名称について、宗教団体の[[GLA総合本部|GLA]](ゴッド・ライト・アソシエーション)に倣ったものではないかと推測している{{Sfn|高山|2006|p=93}}。|group="注"}}を開局、[[1982年]](昭和57年)に無許可の[[医薬品]]{{#tag:ref|蛇やニンジンの皮といった漢方薬をアルコールに漬けた『青龍丹』|group="注"}}を販売し四千万円を稼いだものの、「効き目がないどころか下痢をした」などと告発され同年[[6月22日]]に[[薬事法]]違反で[[逮捕]]、20万円の罰金刑を受ける{{Sfn|高山|2006|pp=73-89}}<ref>[[有田芳生]]と[[女性自身]]「シリーズ人間」取材班『「あの子」がオウムに!』p.52</ref>。
 
妻の[[松本知子]]は、3女の[[松本麗華]]によれば、[[1982年]]に麻原が[[医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律|薬事法]]違反で[[逮捕]]されたことや、[[宗教]]にのめり込み家に戻らなくなったことなどが原因で、許容量をはるかに超える精神的葛藤のために、精神の異常が現れ始め、[[神経症]]に罹ったと告白(自著『転換人生』にも書いている)。その後、[[対人恐怖症]]・[[広場恐怖症|外出恐怖症]]を発症、[[強迫神経症]]もひどくなる。このため、家庭でも精神不安定が目立ち、外で愛想のよい笑顔を浮かべた日に限って家庭では些細なことで怒りを爆発させていた。夫婦喧嘩の末に[[家出]]をすることもあり、「もう勝手にして!こんな家、出て行くわ」と叫びながらも実際に家を出るまで怒鳴りながら部屋と玄関の間を何往復もしていた。しかし、3姉妹の中で知子についていくものはなく、気の毒に思った3女の麗華が何度か家出について行った<ref name="rika"/>。
 
=== オウム真理教 ===
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[[1982年]](昭和57年)、経営塾などをやっていた人物である[[西山祥雲]]に弟子入りし「彰晃」の名をもらい{{Sfn|高山|2006|p=98}}、「松本彰晃」を名乗る{{Sfn|高山|2006|p=104}}。
 
[[1983年]](昭和58年)夏(28歳)、身体を清浄なものとする[[阿含宗]]の教義などが、本来の[[阿含経]]とかけ離れていると感じ脱会<ref>麻原彰晃『超能力秘密の開発法』 p.44</ref>。東京都[[渋谷区]][[桜丘町 (渋谷区)|桜丘]]に、仙道・ヨーガ・[[伝統中国医学|東洋医学]]などを統合した(超)能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設、松本はこのころから「麻原彰晃」と名乗り始める{{Sfn|高山|2006|pp=108-109}}。「麻原彰晃」には「[[阿修羅|アシュラ]]・[[釈迦|シャカ]]」という意味が込められている<ref name="hykw120" />。
 
[[1984年]](昭和59年)2月、学習塾「鳳凰慶林館」をヨガ道場「オウムの会」に変更し、[[5月28日]]には[[株式会社]]オウムを設立{{Sfn|高山|2006|p=109}}{{#tag:ref|この時麻原は、長兄に対し「教祖になってくれないか」と依頼している{{Sfn|高山|2006|p=110}}。|group="注"}}。[[石井久子]]によると、当時の麻原は中性的なヨーガの先生といったところで、宗教的な感じはせず命令するタイプでもなかった<ref>降幡賢一『オウム法廷7』 p.142</ref>。
 
[[1985年]](昭和60年)、[[神奈川県]]の[[三浦海岸]]で修行中に「アビラケツノミコト(神軍を率いる光の命)になれ」と啓示を受けたという<ref group="web">[http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/hirosesyuki.html オウム真理教元信徒広瀬健一の手記] 序章p.1 浄土真宗大谷派円光寺</ref>。秋には空中浮揚したと称する写真が雑誌『[[ムー (雑誌)|ムー]]』『トワイライトゾーン』に掲載された<ref group="web" name="nanzan"/>。また、「幻の超古代金属[[ヒヒイロカネ]]は実在した!?」という記事を『ムー』に掲載。[[岩手県]]にヒヒイロカネ探しに行った際、[[酒井勝軍]]の知り合いという老人から、酒井が隠していたという[[ハルマゲドン]]予言を聞いた。それは[[ハルマゲドン]]の時には日本から「神仙民族」が出現し、救世主となるというものであった(酒井がほんとうに語っていたのかについての真偽は不明)<ref>[[大田俊寛]]『オウム真理教の精神史』 p.215</ref>。
 
[[1986年]](昭和61年)4月、税制上の優遇に目をつけて、ヨガ道場「オウムの会」を宗教団体「オウム神仙の会」と改称{{Sfn|高山|2006|p=140}}。同年7月、[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]で最終[[解脱]]と称す<ref name="mahayana"/>。すでに「武力と[[超能力]]を使って国家を転覆することも計画している。その時は、[[フリーメーソン]]と戦うことになるだろう」などと語っていたという<ref>江川紹子『魂の虜囚』 p.312</ref>。
 
当時、麻原は妻の[[松本知子|知子]]と3人の娘と共に[[千葉県]][[船橋市]]に住み、家族全員で1つの[[寝室]]を共有していた。食事は野菜中心で肉の代りに[[グルテン]]を肉状にしたものを食べたり、[[ちゃぶ台]]の上にホットプレートを置き、「野菜バーベキュー」を楽しんでいた。この船橋の家には「瞑想室」があり、宗教画が掛けられ棚には[[仏像]]が置かれていた。麻原は日に1度は瞑想室にこもり修行をしていた。棚の前にちゃぶ台を置き、麻原はそれを[[祭壇]]と呼んでいた。「形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては」というのが麻原の口癖だった。後に教団が大きくなってからも、麻原はそれを祭壇として使うほど愛着を持っていた。当時、麻原はヨーガ教室を東京都渋谷区で開いていたため、家にいることが少なかった。たまに帰宅すると強度の弱視のためテレビにくっつくように野球中継を見ていた。
 
このころには[[世田谷区]]の道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合っていた。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の知子は麻原が滅多に帰宅しないことなどから精神不安定となり、麻原に向かってなじるようないさかいがあったが、麻原はほとんど抵抗をしなかった。三女[[松本麗華|麗華]]の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、麻原の著書の代筆を深夜まで行っていた。後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった。麻原は子供に向かって「[[蚊]]に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」や「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、一方妻の知子は当時は信仰心を有していなかっためか、蚊を平気で殺していた。また、麻原はその頃、家族とともに[[発展途上国]]を中心によく旅行をしたが、子たちに「世界には食べ物を食べられない子も、屋根のあるところに住めない子もいるんだ。食べ物を粗末にするのはやめようね」などと諭したりしていた<ref name="rika">松本麗華『止まった時計』麻原彰晃の三女アーチャリーの手記(講談社)</ref>。
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[[1987年]](昭和62年)[[7月]](32歳)には「オウム神仙の会」を「[[オウム真理教]]」に改称し{{Sfn|高山|2006|p=160}}、布教活動を展開。自著、[[オカルト]][[雑誌]]への広告記事を利用し徐々に信者を獲得していった。同年、[[日本テレビ]]『[[鶴ちゃんのプッツン5]]』に超能力者として出演。
 
[[1988年]](昭和63年)(33歳)、[[ダライ・ラマ14世]]と親交のある[[ペマ・ギャルポ]]に接近。「自分の修行がどの程度のものなのか[[チベット仏教]]の長老に見ていただきたい」と申し出、[[ダラムサラ]]の宗教・文化庁を紹介される{{Sfn|高山|2006|pp=149-150}}。現地で長老らと一緒に瞑想した結果、高く評価され、ダライ・ラマ14世との接見を数回行っており、接見の様子を宣伝に利用することとなる<ref>『オウム真理教事件 - 宗教者・科学者・哲学者からの発言 (仏教・別冊)』[[法藏館|法蔵館]]、1996年、pp.4-5</ref>。
 
==== マハーヤーナとヴァジラヤーナ ====
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麻原は既にオウム神仙の会時代の[[1987年]]にはタントラ・ヴァジラヤーナや[[ポア (オウム真理教)|ポア]]といった殺人肯定の教えを説いていたとされる<ref group="web" name="nanzan"/>。さらに、[[阿含宗]]のスパイがいないか調査させるなど、後につながる行動が始まっていた<ref>降幡賢一『オウム法廷5』 p.65</ref>。
 
[[1988年]](昭和63年)、[[オウム真理教在家信者死亡事件|在家信者死亡事件]]が発生、教団から死人を出す。麻原は「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だな」と語った<ref group="web">[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/817/005817_hanrei.pdf 平成7年刑(わ)894号  平成14年7月29日  東京地方裁判所](PDF)</ref>。この頃から[[ヨハネの黙示録]]解読に熱中し始める。同年[[10月28日]]、「当初、初めは、わたしはね、凡夫を救済するのがわたしの役割だろうと考えていた。しかし、近ごろわたしは心が少しずつ変わってきている。(略)動物化した、あるいは餓鬼化した、あるいは地獄化したこの人間社会というものの救済は不可能なのかもしれないなと。そして、じゃあどうしたらいいかというと、新しい種、つまり、今の人間よりも霊性のずっと高い種、これを残すことがわたしの役割なのかもしれないなと。」と説法した<ref group="web">広瀬健一「[http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/hirosesyuki.html オウム真理教元信徒  広瀬健一の手記]」 第二章 浄土真宗円光寺</ref>。
 
[[1989年]](平成元年)、[[オウム真理教男性信者殺害事件|男性信者殺害事件]]、[[坂本堤弁護士一家殺害事件]]が発生。坂本弁護士事件では当初からオウム真理教の関与が疑われた。
 
[[1990年]]([[平成]]2年)2月の[[第39回衆議院議員総選挙|衆議院議員選挙]]では、[[真理党]]代表として[[東京都第4区 (中選挙区)|東京4区]](5人区)から出馬、[[オウム真理教の音楽|オウムソング]]を歌うなど独特の選挙パフォーマンスで注目を集め「泡沫候補とか言っているが、今に見てろよ」と語っていたが<ref group="web">[http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/hirosesyuki.html オウム真理教元信徒広瀬健一の手記] 第四章p.5 浄土真宗大谷派円光寺</ref>、結果は1783票で落選<ref group="web">[https://dot.asahi.com/wa/2012092601293.html オウム真理教・麻原彰晃の転機は90年衆院選の「全員落選」] AERA dot. 2012年6月12日</ref>。「今回の選挙の結果は、はっきり言って惨敗、で、何が惨敗なのかというと、それは社会に負けたと。(略)つまり、選挙管理委員会を含めた大がかりなトリックがあったんじゃないか」「今の世の中はマハーヤーナ<ref group="注">オウム真理教のマハーヤーナ(大乗)とは、自己だけでなく他の多くの人たちをも高い世界に至らしめる道(衆生済度、救済)である。教団全体はマハーヤーナと規定される。</ref>では救済できないことが分かったのでこれからはヴァジラヤーナ<ref group="注">オウム真理教のヴァジラヤーナ(金剛乗)とは、グルと弟子との1対1の関係においてのみ成り立つ道である。悪業を積み続ける魂を救済するために殺害すること、貪り多き魂を救済するためにその財産を奪うこと、嘘を使って真理に導き入れることなどが、天界の菩薩の修行として説かれている。ヴァジラヤーナの教義は殺人を正当化するもので、教団が根幹に据えているもの。</ref>でいく」として、[[ボツリヌス菌]]や[[ホスゲン]]爆弾による無差別テロを計画する<ref group="判決" name="hanketu">[http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/trial/4-6.html 松本智津夫被告 法廷詳報告 林郁夫被告公判] カナリヤの会</ref><ref group="web">[http://hikarinowa.net/kyokun/generalization1/revisonaum/1990.html オウム真理教(1983~1999年)の活動経緯の総括] ひかりの輪</ref>。
 
[[1991年]](平成3年)、[[オウム真理教国土利用計画法違反事件|国土法違反事件]]を起こしたため、武器製造を中断し1991年から[[1992年]](平成4年)にかけてはマハーヤーナ・合法路線に切り替え、文化活動や、[[インド]]・[[チベット]]・[[ラオス]]・[[スリランカ]]・[[ロシア]]訪問、[[テレビ朝日]]『[[朝まで生テレビ]]』『[[TVタックル]]』・[[フジテレビ]]『[[おはよう!ナイスデイ]]』・[[日本テレビ]]『[[とんねるずの生でダラダラいかせて]]』への出演、雑誌や新聞への登場、[[島田裕巳]]・[[荒俣宏]]・[[中沢新一]]・[[栗本慎一郎]]・[[田原総一朗]]・[[ビートたけし]]らとの対談、大学での講演などを精力的に行い知名度を高める<ref group="web">[http://hikarinowa.net/kyokun/generalization1/revisonaum/1991.html オウム真理教(1983~1999年)の活動経緯の総括 1991年] ひかりの輪</ref><ref group="web">[http://hikarinowa.net/kyokun/generalization1/revisonaum/1992.html オウム真理教(1983~1999年)の活動経緯の総括 1992年] ひかりの輪</ref>。
 
かくして新新宗教ブームの代表として人気者となっていた麻原だが、一方で、麻原自身はこのような穏健路線は「邪悪な世界への誘惑」であり、「救世主としての使命を妨げている」と感じており「この流れにのってはいけない」と言ったと[[上祐史浩]]は語っている<ref group="web">Richard Danzig・Zachary M. Hosfordほか(2012)「[https://www.cnas.org/publications/reports/aum-shinrikyo-second-edition-japanese オウム真理教:洞察-テロリスト達はいかにして生物・化学兵器を開発したか](日本語版)」 新アメリカ安全保障センター</ref><ref>上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.156</ref>。[[1993年]]前後から「またヴァジラヤーナを始めるぞ」として徐々に武装化を再開した<ref group="判決" name=wa141/>。
 
==== 武装・非合法路線の本格化 ====
[[1993年]](平成5年)には「すべての魂をポアするぞ」などと発言し再びヴァジラヤーナ・非合法路線を本格的に再始動、[[オウム真理教放送]]など一部を除いてメディアへの露出も減り、信者に兵器の開発や敵対者の暗殺を指示し多くの事件を起こす<ref group="判決" name="wa141"/>。殆どの事件は[[村井秀夫]]などの弟子に指示する形で行っていたが、[[薬剤師リンチ殺人事件]]では実際に現場に立ち会った<ref group="判決" name="hanketu"/>。信者の運転する[[炭疽菌]]噴霧トラックに乗り込み都内を巡り、[[フリーメーソン]]認定した建物めがけて炭疽菌をばらまいていたこともあった{{Sfn|青沼|2007|p=233}}。
 
[[サリン]]開発にも力を入れており、[[サリンプラント|サリン70トン量産計画]]の早期実現を命令していた。この他、[[自動小銃密造事件|自動小銃密造]]など多数の[[オウム真理教の兵器]]開発を推し進めた<ref group="判決" name="wa141"/>。
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また、この頃から[[アメリカ軍]]による毒ガス攻撃や[[Q熱]]の症状を訴え,「毒ガスでやられて死んじゃう」などと被害妄想が激しくなる。電磁波攻撃対策として専用車に金属ネットを張らせたり<ref group="web">[http://hikarinowa.net/kyokun/generalization1/revisonaum/1993.html オウム真理教(1983~1999年)の活動経緯の総括 1993年] ひかりの輪</ref><ref>降幡賢一『オウム法廷7』 p.170</ref>、[[肝癌]]になったと言って[[超音波検査]]をしたりしていた<ref>降幡賢一『オウム法廷3』 p.107</ref>。
 
[[1994年]](平成6年)からは麻原は急速に子供らに対し頻繁に[[スキンシップ]]を繰り返すようになる。時には三女(麗華)に[[キス]]をしたり、抱きしめたりすることもあり、[[遊園地]]や食事に連れていく機会も増えたという<ref name="rika"/>。同年6月に[[松本サリン事件]]を起こしている。
 
[[1995年]][[平成]]7年)、[[阪神・淡路大震災]]の支援と称して[[神戸市]][[長田区]]を訪れたが、長田区に遊ぶところがないと分かると帰ってしまったという{{sfn|田村|1996|p=53}}。[[3月13日]]には[[トイザらス]][[岡崎市|岡崎]]店で、[[3月15日]]には[[彦根市]]のファミレスで信者を連れて出歩いていたのが目撃されている<ref>「オウム麻原容疑者 潜伏、ナゾの2ヶ月間」 読売新聞 1995年5月16日</ref>。
 
==== 逮捕 ====
40歳を迎えた[[1995年]]の3月18日、[[村井秀夫]]、[[井上嘉浩]]らと強制捜査の延期方法をリムジン内で謀議、地下鉄にサリンを撒くという提案に賛同、20日に[[地下鉄サリン事件]]が起きる<ref group="判決" name="hanketu"/>。
 
その後、尊師専用車を東京に移動させ偽装工作を行ったが<ref group="web">[http://www.s-a-t.org/sat/sarin/960425k.html サリン事件の詳細な実態、および事件の謎/サリン事件にまつわる各種資料/1996年4月25日  冒頭陳述の要旨(麻原彰晃こと松本智津夫)] オウム裁判対策協議会</ref>、[[5月16日]][[山梨県]][[西八代郡]][[上九一色村]](現・[[南都留郡]][[富士河口湖町]])のオウム真理教の教団施設「第6[[サティアン]]」内で[[地下鉄サリン事件]]の[[正犯|首謀者]]として[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された<ref>『中日新聞』1995年5月16日夕刊1面「麻原代表けさ逮捕 地下鉄サリン殺人容疑 オウム幹部ら40人も 警視庁 全国で一斉捜査へ」<br>『中日新聞』1995年5月16日夕刊1面「オウム麻原代表逮捕 上九『第6』中3階に潜む 地下鉄サリン殺人容疑 『目の見えない私にはできぬ』 容疑否認」</ref>。
 
捜査本部は当初、「麻原は1階と2階の間の部屋に隠れている」という[[遠藤誠一]]の供述を元に該当箇所を捜索したが見つからず、第6サティアンの南側入り口1階から2階への階段天井部分に造られた隠し部屋(高さ約50cm、幅103cm、奥行き335cm)で、[[現金]]960万円の札束と[[寝袋]]を抱えて隠れていた所で発見された<ref group="web">{{Cite news|title=地下鉄サリン:事件から20年  教祖逮捕、緊迫の4時間|date=2015-03-20|url=http://mainichi.jp/select/news/20150320k0000m040169000c.html|newspaper=毎日新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150320091136/http://mainichi.jp/select/news/20150320k0000m040169000c.html|archivedate=2015-03-20}}</ref>。
 
麻原は以下のように供述した。
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=== 第一審・東京地裁 ===
==== 初公判 ====
当初、第一審の初公判日程は[[1995年]](平成7年)[[10)10月26日]]に設定されたものの、麻原は初公判前日の[[10月25日]]に私選[[弁護人]]の[[横山昭二]]を解任<ref>{{Cite news|title=「露骨な引き延ばしだ」--オウム真理教代表・麻原彰晃被告の弁護士解任|newspaper=『毎日新聞』東京朝刊|publisher=毎日新聞社|date=1995-10-26|page=31}}</ref>。[[東京地方裁判所]]は期日を取り消し、[[渡辺脩]]、[[安田好弘]]ほか[[国選弁護制度|国選弁護団]]を選任したが、初公判は延期を余儀なくされた。国選弁護団は弁護士会から依頼があったので引き受けただけであるが、何故麻原を弁護するのかとバッシングを受けた<ref>渡辺脩『麻原を死刑にして、それで済むのか?』 p.9</ref>。
 
[[1996年]](平成8年)[[4)4月24日]]、第一審の初公判([[阿部文洋]]裁判長)が開かれ、[[1996年]](平成8年)[[4)4月24日]]に[[東京地方裁判所]]で初公判が行われたが、48席の一般傍聴席に対して、日本の刑事裁判史上最多の12,292人が傍聴を希望して、傍聴券の抽選場所の[[日比谷公園]]には長蛇の列ができた<ref group="web">{{Cite news|title=麻原彰晃被告の初公判始まる  地下鉄サリン事件など3事件|date=1996-04-24|url=http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/past/ky19960424_01.htm|newspaper=読売新聞|archiveurl=https://archive.is/20131224030652/http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/past/ky19960424_01.htm|archivedate=2013-12-24}}</ref><ref>『中日新聞』1996年4月24日夕刊1面「麻原被告初公判開く 職業は『オウム主宰者』 教団服着用認めず 地下鉄サリンなど 3事件まず審理 東京地裁」</ref>。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]はこの時点から、「麻原-」から「松本-」と本名で報道するようになった。その後、[[民間放送|民放]]全局・[[産経新聞]]・[[中日新聞]]([[東京新聞]])などを除くほとんどの[[新聞|新聞社]]も本名で報道するようになった。[[日本放送協会|NHK]]は結審まで「麻原-」を使用していた。
 
[[裁判]]では初公判で阿部は「全世界がこの事件に注目している。[[判決 (日本法)|判決]]は5年以内に出したい」と述べ、事件ごとの並行審理を提案したが、弁護団側が拒否したため、一事件ずつの審理となった。また、弁護団が月4回の開廷ペースに反発。審理をボイコットなどで[[長期裁判]]の様相を見せ<ref>降幡賢一『オウム法廷4』 p.189</ref>、一時は第一審の結審までに30年はかかるという噂も流れた<ref>降幡賢一『オウム法廷6』 p.26</ref><ref group="注">元[[連合赤軍]]幹部で、[[印旛沼事件]]・[[山岳ベース事件]]・[[あさま山荘事件]]に関与した[[坂口弘]]は17人の殺人で[[起訴]]され、結審まで21年を要した。</ref>。
171行目:
弁護側は検察側が申請した被害調書や[[共犯]]者の供述調書などの1万5687点の証拠に対し1万5472点と約98.62%に不同意。そのために171人の検察側の[[証人]]を直接出廷させて証言させることになったが、検察側の尋問時間が計206時間であったのに対し、弁護側の尋問時間は1053時間 (検察側の5倍) に及んだ。弁護士の証人尋問では「職場のどのプリンターで印刷したものか(地下鉄サリン事件で、営団地下鉄の職員が、都内の地下鉄のダイヤの表について)」「サリンを見たことあるのか(サリン患者に関する医師のカルテについて)」などの尋問があった。これらにより実質的な証拠調べが遅れたと[[日刊ゲンダイ]]は報じている<ref>日刊ゲンダイ 2000年4月25日</ref>。
 
[[1997年]](平成9年)12月、検察側は松本・地下鉄両サリン事件の重軽症者を約4000人から18人に減らす訴因変更を行い、[[2000年]](平成12年)10月に薬物密造など4事件の起訴を取下げて案件を13事件に絞り込んだ。
 
==== 安田好弘の証言 ====
[[1995年]][[10月26日]]に予定されていた初公判が[[横山昭二]]弁護人の突然の解任で取り消しになった後、弁護士会より国選弁護人就任を依頼された弁護士[[安田好弘]]は、4日後に初めて麻原に接見。麻原は開口一番「あなたをお待ちしていました。あなたの名前は聞いていました」といったという。その後、月に5-10回の頻度で接見を続ける。1995年暮れ、麻原は安田に向かい、「どうすれば、私の真実を明らかにできますか」と問うたのに対し、安田は「法廷でみんなが見ている前で、[[空中浮揚]]をやってはどうでしょうか」と提案する。「[[法廷]]でやってみせれば、僕たち弁護人も納得するし、[[検察官]]、[[裁判官]]は腰を抜かして逃げてくと思うよ」と話すと、麻原は、「やってみます」と言い、[[1996年]]4月の初公判に向けて、警視庁の[[留置場]]や[[東京拘置所]]中で、『空中浮揚』の修行を重ねていたという。また、「当時麻原の好物は検察発表により高級品の[[メロン]]と報道されていたが、麻原は「本当の好物は[[バナナ]]」と話した([[#食べ物、動物|後述]])。
 
麻原は接見中に、「[[2003年]]に、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が日本や世界に向けて最終の[[宗教戦争]]を引き起こす」と言い出したことがあり、「自分は時間と空間を超えることができる。2003年の[[広島市|広島]]に飛んだところ、焼け野原になっていた。通りがかりの人に聞くとアメリカが[[原子爆弾|原爆]]を落としたと広島弁で話した。これは、予言ではない、現実に行って見聞してきたことだ」と安田に向かって話した。また、接見中に[[停電]]があり、真っ暗となった際に麻原は何も気づかずに話し続けたことから、目が見えないのは本当だと思ったという<ref group="web" name="aera">{{Cite web|url=https://dot.asahi.com/aera/2018070600045.html?page=1|title=AERAdot.「法廷で空中浮揚」計画も…  麻原彰晃が本気で明かしたかった「私の真実」とは?  元主任弁護士が語る(2018.7.6 15:19)
|accessdate=2018-7-8}}</ref>。
 
==== 罪状認否 ====
麻原は公判の初期や、裁判と同時期([[1996(1996]]5月)に行われたオウムへの[[破壊活動防止法]]適用を議論する弁明に出席した際には、宗教的な難解な話を始めることはあったものの饒舌であり、まともな受け答えを行っていた<ref group="web" name="nanzan">渡邉学 [https://nirc.nanzan-u.ac.jp/nfile/3788 南山宗教文化研究所所蔵オウム真理教関係未公開資料の意義について] 南山宗教文化研究所 2009年</ref>。
 
だが[[1996年]][[10月18日]]の井上に対する弁護側反対尋問の際に、麻原は井上への尋問の中止を頑なに要求。弁護団も延期を要請したが検察と裁判所に拒否された<ref>降幡賢一『オウム法廷2下』 p.204</ref>。以降、突如英語で話し始める、居眠りをするなどのなどの行動([[#奇行|後述]])を繰り返すようになり、しばしば裁判長から注意や退廷命令を受けた<ref group="判決" name="hanketu"/><ref group="web" name="enter" />。麻原は「退廷ですか?それはありがたい<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録1』 p.244</ref>」「とんでもないことをやっている教祖とは何だ<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録2』 p.203</ref>」などと語った。
 
当初は起訴案件の[[罪状認否]]に関しては留保したが、[[1997年]][[4月24日]]の公判で麻原は罪状認否を行い、起訴された17事件のうち16事件で英語を交えながら以下の通りに無罪を主張した([[駐車場経営者VX襲撃事件]]のみ留保)。「麻原は事件について語らなかった」とされることもあるが、実際には(整合性のない言葉と不自然な英語で)事件について語っており、事件をオウムが起こしたことは認めつつ弟子の責任とした<ref group="web" name="enter"/><ref>降幡賢一『オウム法廷4』</ref>。
 
*[[オウム真理教男性信者殺害事件|男性信者殺害事件]] - ロープで殺せと指示していないので無罪
204行目:
 
==== 求刑 ====
麻原は「こんなくだらん裁判はやらんでいい<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録1』 p.368</ref>」「ここは裁判所なんかじゃない、劇場だ」「退廷させて死刑場につれていくのはOKだ」「射殺したければ射殺すればいい」「こんなばかな茶番劇のような裁判はやっても仕方ない」「こんなでたらめな裁判はやめろ、権利の侵害だ」「私はあなた方が裁くことはできない」と述べ<ref name="hu13-655">降幡賢一『オウム法廷13』 p.655</ref><ref name="ronkoku">松本智津夫被告に対する検察側論告の要旨  平成15年4月24日  東京地方裁判所(降幡賢一『オウム法廷13』p.271-349より引用)</ref>、[[2002年]][[2月25日]]の公判を最後に応答しなくなった<ref group="判決" name="hanketu"/><ref>降幡賢一『オウム法廷13』 p.21</ref>。
 
[[2003年]](平成15年)[[4)4月24日]]、検察側は[[論告]]求刑公判で、麻原被告人に[[日本における死刑|死刑]]を[[求刑]]した<ref>『中日新聞』2003年4月25日朝刊1面「麻原被告に死刑求刑 オウム公判 『犯罪史上最も凶悪』」</ref><ref group="web">{{Cite news|title=オウム真理教の松本智津夫被告に死刑求刑|newspaper=読売新聞|date=2003-04-24|url=http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/200304//ky20030424_46.htm|archiveurl=https://archive.is/20131229033100/http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/200304//ky20030424_46.htm|archivedate=2013-12-29}}</ref>。検察側は「わが国犯罪史上、最も凶悪な犯罪者というしかない」「救済の名の下に日本を支配して、自らその王になることを空想し、それを現実化する過程で[[オウム真理教事件|一連の事件]]を起こした」と論告した。検察側は「処罰感情は激烈である」として被害者遺族らの「八つ裂きに」「自分が殺してやりたい」「[[サリン]]による死刑執行を望む」などといった発言を引用した<ref>降幡賢一『オウム法廷13』 p.297-332</ref>。
 
同年[[10月30日]]から10月31日にかけて弁護側が「一連の事件は弟子たちの暴走であり被告は無罪」とする旨の最終弁論を行い、結審した<ref>『中日新聞』2003年10月30日夕刊1面「麻原被告弁護側 『弟子の暴走』無罪主張 最終弁論、あす結審」</ref><ref>『中日新聞』2003年11月1日朝刊1面「麻原被告、発言せず結審 来年2月27日判決 初公判から7年半」</ref>。東京地裁で開かれた公判回数は、257回に上り、初公判から第一審の判決まで、7年10カ月を要した。
 
==== 判決 ====
[[2004年]](平成16年)[[2)2月27日]]、一連の事件を首謀したと認定して[[東京地方裁判所]]([[小川正持]]裁判長)は「あさましく愚かしい限り」「無慈悲かつ冷酷非情で残酷極まりない」「残虐非道極まる犯行の数々というほかはない」として求刑通り死刑判決を言い渡した<ref>『中日新聞』2004年2月27日夕刊1面「東京地裁判決 麻原被告に死刑 オウム全13事件首謀 『極限の非難に値する』」</ref><ref>『中日新聞』2004年2月28日朝刊1面「麻原被告に死刑判決 オウム13事件で東京地裁 すべて首謀と認定 弁護団、控訴し辞任」</ref><ref group="判決" name="wa141"/><ref group="web">{{Cite news|title=オウム松本被告に死刑判決、犯行指示認定  弁護団は控訴|newspaper=朝日新聞|date=2004-02-27|url=http://www.asahi.com/special/matsumoto/TKY200402270121.html|accessdate=2017-07-06|archiveurl=http://web.archive.org/web/20170706124019/http://www.asahi.com/special/matsumoto/TKY200402270121.html|archivedate=2017-07-06 }}</ref>。これに対し、弁護側は[[東京高等裁判所]]に即日[[控訴]]した。
 
=== 控訴審・東京高裁 ===
第一審を担当した国選弁護団は終了後に全員が辞任。12人の国選弁護人に支払われた弁護士[[報酬]]は計4億5200万円になった<ref>「麻原裁判、国選弁護人の報酬は計4億5200万円」 読売新聞 2004年4月19日</ref>。松井武と仙台在住の松下明夫の2人の弁護団が後を引き継いだ。[[東京高等裁判所]]は[[控訴趣意書]]の提出期限を[[2005年]](平成17年)[[1月11日]]と定めた<ref>{{Cite news|title=オウム裁判:松本智津夫被告の控訴審 趣意書提出期限は来年1月11日--東京高裁|newspaper=『毎日新聞』東京朝刊|publisher=毎日新聞社|date=2004-07-02|page=27}}</ref>。弁護団は1審判決後、松本に計36回接見したものの、弁護団の問いかけに無反応で意味不明な声を漏らし意思疎通が不可能であるとして、公判停止を申し立てた<ref>{{Cite news|title=オウム裁判:松本被告の弁護団「訴訟能力なし」--公判停止を申し立て|newspaper=『毎日新聞』東京朝刊|publisher=毎日新聞|date=2004-11-30|page=31}}</ref>。一方、東京高裁裁判長の[[須田賢]]は、[[2004年]]12月10日に麻原と面会し、「控訴趣意書は弁護士に作ってもらってもよい」「提出期限を延ばすつもりはなく、棄却もありえる」と説明した<ref>{{Cite news|title=オウム裁判:東京高裁裁判長、松本智津夫被告に面会|newspaper=『毎日新聞』東京朝刊publisher=毎日新聞社|date=2004-12-18|page=28}}</ref>。
 
2005年(平成17年)[[1)1月6日]]、東京高裁は麻原の精神鑑定を求める[[特別抗告]]を[[棄却]]しつつ、控訴趣意書の提出期限を同年[[8月31日]]まで延長することを決めた<ref>{{Cite news|title=オウム裁判:松本被告控訴審 東京高裁、趣意書提出期限を延長--年内開始、微妙に|newspaper=『毎日新聞』東京朝刊|publisher=毎日新聞社|date=2005-01-08|page=25}}</ref>。
 
同年[[8月19日]]、東京高裁は弁護団に対して精神鑑定の実施を伝えた<ref group="web">{{Cite news|title=松本被告  精神鑑定へ|newspaper=読売新聞|url=http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/200508/ky20050820_01.htm|date=2005-08-20|archivedate=2013-12-29|archiveurl=https://archive.fo/z0KWi}}</ref>。弁護団によれば、このとき東京高裁は「鑑定形式による鑑定人の意見が出るまでは控訴棄却はしない」と明言したとされる<ref name="mainichi:05">{{Cite news|title=オウム裁判:松本被告訴訟、直ちに控訴棄却せず 精神鑑定出るまで--東京高裁|newspaper=『毎日新聞』東京朝刊|publihser=毎日新聞社|date=2005-09-01|page=31}}</ref>。提出期限の8月31日、弁護側は控訴趣意書の「骨子」を持参したが、高裁の鑑定への立ち会いや公開法廷での鑑定人尋問などに関する申し入れが拒否されたことを理由に提出を拒んだ<ref name="mainichi:05"/>。9月3日、東京高裁は控訴趣意書を「直ちに提出することを強く求める」文書を弁護団に送付した<ref group="web">{{Cite news|title=高裁、趣意書の即時提出要請|newspaper=読売新聞|url=http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/200509/ky20050903_01.htm|date=2005-09-03|archivedate=2013-12-29|archiveurl=https://archive.fo/nb5JC}}</ref>。[[2005年]](平成17年)9月、東京高裁は麻原の[[精神鑑定]]を[[西山詮]]に依頼した<ref name="tyuniti:06"/>。
 
2004年(平成16年)10月以降、弁護団は独自に[[精神科医]]に依頼して鑑定を実施した{{Sfn|森|2012|pp=304-306}}。[[中島節夫]]・[[中谷陽二]]・[[野田正彰]]・[[秋元波留夫]]・[[加賀乙彦]]など、計7人の精神科医はいずれも訴訟能力を否定または疑問視している{{Sfn|森|2012|pp=239-240}}<ref>{{Cite news|title=オウム裁判:松本智津夫被告「訴訟能力なし」--弁護団が意見書|newspaper=『毎日新聞』東京朝刊|publisher=毎日新聞社|date=2006-01-17|page=28}}</ref><ref>{{Cite news|title=(教祖死刑:上)語らぬ心、審理「幕」 オウム・松本被告の死刑確定|newspaper=朝日新聞 朝刊|page=35|date=2006-9-16}}</ref>。一方、高裁の依頼を受けて鑑定を行った西山は「[[拘禁反応]]はあるが拘禁精神病の水準には達しておらず訴訟を続ける能力を失っていない」とし、高裁は[[2006年]]2月にこの鑑定書を受けとった<ref name="tyuniti:06"/>。
 
高裁はこの鑑定書への反論意見書の提出を[[2006年]][[3月15日]]までとした<ref group="web" name="kantei">{{Cite news|title=動揺→逃避願望→奇行、松本鑑定の全容が明らかに|newspaper=読売新聞|date=2006-02-21|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4900/news/20060221it04.htm|accessdate=2013-07-06|archivedate=2013-07-06|archiveurl=https://archive.fo/uwIeZ}}</ref>。弁護側は提出期限の1ヶ月延長を高裁に申し立てたが<ref group="web">{{cite news|title=松本被告弁護側、意見書の提出期限延長を申し立て|newspaper=読売新聞|date=2006-02-25|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4900/news/20060309ic04.htm|accessdate=2013-07-06|archivedate=2013-07-06|archiveurl=https://archive.fo/KtmtK}}</ref>、認められず<ref group="web">{{Cite news|title=松本被告の弁護側意見書、東京高裁は提出延長認めず|date=2006-03-11|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4900/news/20060311it12.htm|accessdate=2013-07-06|archivedate=2013-07-06|archiveurl=https://archive.fo/T92El}}</ref>、結局期日通りに意見書を提出した<ref group="web">{{Cite news|title=松本被告弁護側、訴訟能力認めた精神鑑定に反論書|newspaper=読売新聞|date=2006-03-16|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4900/news/20060315i316.htm|accessdate=2013-07-06|archivedate=2013-07-06|archiveurl=https://archive.fo/hH22j}}</ref>。
 
2006年(平成18年)、弁護団は[[3月28日]]に控訴趣意書を提出することを表明していた。しかし、東京高裁(須田賢裁判長)はその前日の2006年[[3月27日]]、控訴棄却を決定した<ref name="tyuniti:06">{{Cite news|title=麻原被告 死刑確定の公算 審理なく控訴棄却決定 趣意書不提出を批判 東京高裁『訴訟能力ある』|newspaper=中日新聞 朝刊|publisher=中日新聞社|date=2006-03-28|page=1}}</ref>。この控訴棄却の[[裁判#裁判の形式|決定]]は、控訴審の審理が結審した後に下される控訴棄却の判決とは異なり、控訴趣意書が正当な理由なく期限までに提出されなかったため、[[刑事訴訟法]]の規定に従って、控訴審を開始せずに裁判を打ち切るという決定である。
 
これについては、弁護側が裁判引き延ばしのため控訴趣意書を出さないことで裁判所と危険な[[チキンレース]]をやって負けたという弁護側批判<ref group="web">[[江川紹子]][http://www.egawashoko.com/c006/000214.html 弁護士会の自浄能力を問う] 2007年2月19日</ref>、裁判所のだまし討ちであるという裁判所批判<ref>[[松本麗華]]『止まった時計』 p.236</ref>の両方がある。
 
弁護団はこの決定に対し、2006年(平成18年)[[3)3月30日]]に東京高等裁判所([[白木勇]]裁判長)へ異議申立てを行ったが、同年5月、棄却が決定された<ref name="igi">{{cite news|title=麻原被告の異議棄却『治療しても結論同じ』弁護団の主張一蹴|newspaper=東京新聞 朝刊|date=2006-05-31|page=31}}</ref>。「裁判所は『精神鑑定の意見が出るまでに提出すれば認める』と明言した」とする弁護団の主張については、「裁判所はその日のうちに見解を訂正した」として退けた<ref name="igi"/>。
 
=== 特別抗告・最高裁 ===
235行目:
同年[[9月15日]]、最高裁第三[[小法廷]]([[堀籠幸男]]裁判長)は、特別抗告を棄却する決定をした<ref name="最高裁特別抗告棄却決定">最高裁判所第三小法廷判決 2006年(平成18年)9月15日</ref><ref>『中日新聞』2006年9月16日朝刊1面「麻原被告の死刑確定 オウム事件で最高裁 10年裁判 打ち切り 特別抗告棄却 訴訟能力を認定」</ref>。これにより、麻原への死刑判決が確定した。
 
27人殺人(司法の認定としては26人殺人と1人逮捕監禁致死)は[[死刑囚]]としては戦後最多である<ref group="注">それまでは[[1993年]](平成5年)[[2)2]]に確定した連合赤軍事件の[[坂口弘]]の17人殺人(司法の認定としては16人殺人と1人傷害致死)が最多であった。</ref>。オウム真理教事件で死刑が確定するのは[[岡崎一明]]([[2005(2005]][[4月7日]]に確定)に続いて2人目だった<ref name="impact2016"/><ref group="web">{{Cite news|title=オウム・松本被告、死刑が確定…特別抗告を棄却|newspaper=読売新聞|date=2006-09-15|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4900/news/20060915it11.htm|archiveurl=https://archive.is/20130705213145/http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4900/news/20060915it11.htm|archivedate=2013-07-05}}</ref>。
 
また東京高裁は[[2006年]](平成18年)[[9)9月25日]]に控訴趣意書の提出遅延に関して、[[日本弁護士連合会|日弁連]]に対し「審理の進行を妨げた」として、[[刑事訴訟法]]に基づく処置請求を行い、担当した弁護士2人の処分を求めたが、日弁連は訴訟終結後は処置請求はできないと判断した。[[2008年]](平成20年)9月に弁護士1人に戒告の懲戒処分が、[[2009年]](平成21年)[[7)7月27日]]に弁護士1人に業務停止1カ月の懲戒処分が出た(ただし、日弁連に対する審査請求の結果、処分は戒告に変更された)。
 
=== 再審請求 ===
==== 1度目の再審請求 ====
* [[2008年]](平成20年)11月、遠藤誠一の供述を元に再審請求を行ったが、[[2009年]](平成21年)3月に東京地裁が棄却、同年7月に東京高裁が[[抗告]]を棄却した。
* [[2010年]](平成22年)[[9月13日]]付で、最高裁第一小法廷([[桜井龍子]]裁判長)が、特別抗告を棄却する決定をしたため、[[再審]]は認められなかった<ref group="web">{{Cite news|title=最高裁、松本死刑囚の再審認めず  次女の抗告棄却|newspaper=47NEWS|date=2010-09-15|url=http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010091501000717.html|accessdate=2018-02-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130606212552/http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010091501000717.html|archivedate=2013-06-06}}</ref>。
 
==== 2度目の再審請求 ====
* [[2011年]](平成23年)[[5)5月9日]]、2度目の再審請求を東京地裁が棄却した。同月16日にこれを不服として東京高裁に即時抗告した<ref group="web">{{Cite news|title=松本智津夫死刑囚の再審請求、2度目も棄却|newspaper=読売新聞|date=2011-11-09|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111109-OYT1T00076.htm?from=popin|accessdate=2011-11-22|archiveurl=http://web.archive.org/web/20111110070431/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111109-OYT1T00076.htm|archivedate=2011-11-10}}</ref>。その後、東京高裁で請求を退けられ、最高裁へ特別抗告した。
* [[2013年]][[5月10日]]、最高裁判所第1[[小法廷]](裁判長:[[横田尤孝]])は抗告を退け、再審を認めない決定を下した<ref group="web">{{Cite news|title=松本死刑囚の再審認めず 最高裁|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130510/k10014490461000.html|newspaper=NHK|date=2013-05-10|accessdate=2013-05-10|archiveurl=http://megalodon.jp/2013-0510-2003-14/www3.nhk.or.jp/news/html/20130510/k10014490461000.html|archivedate=2013-05-10}}</ref>。
 
279行目:
* [[東京高等裁判所]]に精神鑑定を依頼された[[西山詮]]は「無言状態は[[偽痴呆]]性で、精神病の水準にない」とし訴訟能力はあると判断した<ref name="tyuniti:06"/><ref name="akimoto">{{Cite news|title=訴訟能力認めた精神鑑定「誤り」 オウム・松本被告弁護団|newspaper=朝日新聞 朝刊|page=37|date=2006-03-02|publisher=朝日新聞社}}</ref>。 意思決定に偏りがあるのは不自然であり、黙秘で戦うのが松本の決心であると結論づけた<ref group="web" name="kantei"/>。
* 東京高裁(須田賢裁判長)は控訴棄却決定書において、1審後に「なぜなんだ、ちくしょう」と大声を発したことなどから、法廷での態度は自ら装ったものであり、訴訟能力を欠いていないとした{{Sfn|森|2012|p=332}}。
* [[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第三小法廷([[堀籠幸男]]裁判長)もまた、特別抗告棄却において、前述の「なぜなんだ、ちくしょう」と叫んだことに加え、西山の鑑定、[[脳波]]、[[CT]]、[[MRI]]検査結果から訴訟能力はあると認定した<ref name="最高裁特別抗告棄却決定"/><ref>オウム事件オウム「オウム事件  松本被告の死刑確定」 読売新聞 2006/9/16</ref>。
* 四女は面会時に詐病であることを確信した<ref name="watashiha naze">松本聡香『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』徳間書店、2010年4月30日。</ref>。
* その他詐病説を支持する意見は以下の通り。ただし、麻原と面識がない人物が含まれる点には注意が必要である。
** [[上祐史浩]][[土谷正実]][[平田信]]は詐病だと考えている。
*** 上祐は、[[釈迦]]も糞まみれになる修行をやっていたので麻原はそれを真似ていると考えている<ref group="web">上祐史浩 [https://ameblo.jp/joyufumihiro/entry-12374965011.html 麻原獄中メッセージ公開:今の麻原の変調は麻原が獄中メッセージで予告した通り:アレフの解釈] 2018年5月10日公開 2018年6月1日閲覧</ref>。
*** 土谷は、「自分が麻原の一審に証人出廷した際、精神疾患の兆しはなく、自分の証言も理解していたし裁判長の反応も気にしていた。一審判決時に精神病を患っているはずがない、弟子達を差し置いて[[詐病]]に逃げた」と語る<ref group="web">朝日新聞 2011年2月15日{{Cite news|title=「麻原、詐病やめて考え述べよ」オウム土谷被告が手紙|newspaper=朝日新聞|date=2011-02-15|url=http://www.asahi.com/special/playback/TKY201102140406.html|accessdate=2018-07-06|archivedate=2018-07-06|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180706025946/http://www.asahi.com/special/playback/TKY201102140406.html}}</ref>。
*** 平田は「詐病だと思う。そういうことをする人間だ」と話したとされる<ref group="web">{{Cite news|title=麻原死刑囚は「詐病だと思う」 平田容疑者、弁護士に話す|newspaper=産経新聞|date=2012-01-07|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120107/crm12010714370010-n1.htm|accessdate=2013-07-05|archivedate=2012-06-05|archiveurl=http://web.archive.org/web/20120605223152/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120107/crm12010714370010-n1.htm}}</ref><ref group="web">{{Cite news|title=オウム井上死刑囚「麻原は“アレフ解体”指示すべき」|url=https://www.mbs.jp/news/national/20180413/00000035.shtml|date=2018-04-13|newspaper=MBSニュース|publisher=毎日放送|accessdate=2018-04-13|archivedate=2018-04-13|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180413190258/https://www.mbs.jp/news/national/20180413/00000035.shtml}}</ref>。
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* 麻原は1999年11月10日の裁判で「レーザーや小さな鉄の破片により脳細胞が破壊されている」と主張<ref>降幡賢一『オウム法廷10』 p.193</ref>。
* 控訴審の松井武弁護士は意思疎通できず、訴訟能力は無いとし、高裁に公判停止を求めていた。
* 松本の二女、三女[[松本麗華]]は[[2004年]]秋から[[2006年]]3月まで20回から30回あまり接見を重ねているが、呼びかけに反応したことはなく、拘禁による精神障害であるとして治療を訴えている<ref name="musume">{{Cite news|title=特報麻原被告の娘 治療訴え 父から真実聞きたい 高裁依頼の鑑定書 『ウソばかり』バイト先で差別『悲しかった』|newspaper=中日新聞 夕刊|publisher=中日新聞社|date=2006-05-15|page=2}}</ref>。また、西山の鑑定書について[[松本麗華]]は「ウソばっかり」であるとし<ref name="musume"/>、[[東京拘置所]]が[[精神安定剤]]を投与していたのではないかと疑っている<ref group="web">松本麗華 [http://blog.asahara-kousoshin.info/?eid=116 父が全盲であることについて(まとめ)] 2015年5月14日公開 2018年1月13日閲覧</ref>。
* 弁護団の依頼で接見した7人の精神科医は、いずれも訴訟能力を否定または疑問を呈した([[#控訴審(東京高裁)]]参照)
** 元[[北里大学]]助教授の医師[[中島節夫]]は「器質性脳疾患の疑いが濃厚」とした{{Sfn|森|2012|pp=239-240}}。
** 弁護士に接見の依頼を受けた二人目の精神科医は「[[拘禁反応]]によって混迷状態にある」「訴訟能力はない」とした{{Sfn|森|2012|pp=239-240}}。
** [[筑波大学]][[教授]]の[[中谷陽二]]は「拘禁反応が慢性化・固定化している」可能性が高く、「訴訟能力は欠如している」とした{{Sfn|森|2012|pp=239-240}}。
** [[関西学院大学]]教授の[[野田正彰]]は、公判当初には訴訟能力に問題はなかったが、その後意志能力が消失したと考え、治療によって軽快ないし治癒する可能性が高いとした<ref>{{Cite news|title=オウム真理教の松本被告公判「続けられぬ」 接見の精神科医|publisher=朝日新聞社|newspaper=朝日新聞 朝刊|date=2006-01-07|page=35}}</ref>{{Sfn|森|2012|pp=239-240}}。
** [[金沢大学]][[名誉教授]]の[[秋元波留夫]]もまた訴訟能力を否定し、西山の鑑定に対し「水準とは何かが不明。偽痴呆性との診断は症状と矛盾し、根拠がない」「科学者のとるべき態度ではない」などと批判した<ref name="akimoto"/>{{Sfn|森|2012|pp=239-240}}。
** 作家で精神科医の[[加賀乙彦]]は、拘禁反応の状態を示しており言語による意思の疎通は不可能で訴訟能力はないとし、西山の鑑定は「被告の空想虚言症を見落としているうえ、医学用語の使用にも誤りがある。到底信頼できない」とした<ref>{{Cite book|和書|author=加賀乙彦|title=悪魔のささやき|publisher=集英社|date=2006-08-12|isbn=978-4087203547|pages=146-151}}</ref><ref>{{cite news|title=弁護団、松本被告の再鑑定申し入れ オウム裁判|newspaper=朝日新聞 夕刊|page=19|date=2006-03-09|publisher=朝日新聞社}}</ref>{{Sfn|森|2012|pp=239-240}}。また、環境を変えたり投薬によって治る可能性があるとし、一方で精神状態が変動していることから精神病ではないと説明した<ref>{{Cite news|title=「松本被告、訴訟能力なし」 オウム裁判、作家・加賀乙彦氏が見解|newspaper=朝日新聞 朝刊|publisher=朝日新聞社|date=2006-02-25|page=38}}</ref>。
** 精神科医の[[斎藤学 (精神科医)|斎藤学]]は「痴呆に似ているが断定できない」としつつ、治療可能性があると印象を語った<ref>{{Cite news|title=「麻原被告 治療可能性がある」精神科医が接見|newspaper=東京新聞 朝刊|page=26|date=2006-04-26|中日新聞社}}</ref>。また自身のブログにおいて接見の様子を報告している<ref group="web">{{Cite web|url=http://www.iff.co.jp/saito/archives/qa3/|title=麻原被告との接見|author=斎藤学|publisher=アイエフエフ|accessdate=2013-07-06|date=2006-06-09|archivedate=2016-08-10|archiveurl=http://web.archive.org/web/20160810171921/http://www.iff.co.jp:80/saito/archives/qa3/}}</ref>。
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[[上川陽子]][[法務大臣]]は[[2018年]](平成30年)7月3日付で麻原・[[土谷正実]]・[[遠藤誠一]](以上3人は東京拘置所在監)・[[井上嘉浩]]・[[新実智光]](以上2名は[[大阪拘置所]]在監)・[[中川智正]](広島拘置所)・[[早川紀代秀]]([[福岡拘置所]])の各死刑囚7人に対する死刑執行命令書へ押印した<ref group="web" name="法務省2018-07-06">{{Cite press release|title=法務大臣臨時記者会見の概要 平成30年7月6日(金)|url=http://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho08_01026.html|date=2018-07-06|publisher=[[法務省]]([[法務大臣]]:[[上川陽子]])|accessdate=2018-11-09|archivedate=2018-11-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181109123735/http://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho08_01026.html}}</ref>。
 
この死刑執行命令を受けて同年[[7月6日]]、麻原は朝食を全部食べた後の7時40分ごろに死刑執行を告げられて教誨室に向かい、そこで死刑執行を告げられたが、遺体の引き取り先を聞かれた際に警務官との問答で「ちょっとまって」「四女」「グフッ」と発声したとされている<ref group="web" name="執行直前">{{Cite news|title=松本元死刑囚、執行直前の様子明らかに|newspaper=TBS NEWS|publisher=TBS|date=2018年7月12日|url= http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3419567.html|accessdate=2018-07-13|archivedate=2018-07-13|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180713153810/http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3419567.html}}</ref>。麻原は特に暴れたり抵抗したりはせず<ref group="web" name="執行直前"/>、同日に前述6人とともに[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑を執行された]]。{{没年齢|1955|3|2|2018|7|6}}<ref group="web" name="法務省2018-07-06"/><ref group="web">{{Cite news|title=麻原彰晃死刑囚の死刑執行  ほかの6人も執行見込み  オウム事件で初|newspaper=産経新聞|publisher=産業経済新聞社|date=2018-07-06|url=http://www.sankei.com/affairs/news/180706/afr1807060004-n1.html|accessdate=2018-07-13|archivedate=2018-07-13|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180713154808/http://www.sankei.com/affairs/news/180706/afr1807060004-n1.html}}</ref><ref group="web">{{Cite news|title=麻原彰晃死刑囚ら7人死刑執行  早川・井上・新実・土谷・中川・遠藤死刑囚|newspaper=産経新聞|publisher=産業経済新聞社|date=2018-07-06|url=http://www.sankei.com/affairs/news/180706/afr1807060006-n1.html|accessdate=2018-07-13|archivedate=2018-07-13|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180713154954/http://www.sankei.com/affairs/news/180706/afr1807060006-n1.html}}</ref><ref group="web">{{Cite news|title=麻原死刑囚の死刑執行  オウム事件で初|newspaper=産経新聞|publisher=産業経済新聞社|date=2018年7月6日8時51分|url=http://www.sankei.com/affairs/news/180706/afr1807060004-n1.html|accessdate=2018-07-06|archivedate=2018-07-06|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180706031511/http://www.sankei.com/affairs/news/180706/afr1807060004-n1.html}}</ref>。2006年9月の死刑確定から11年10ヶ月後のことだった<ref group="web" name="mainichi180706">{{Cite news|title=オウム事件:教団元代表の松本智津夫死刑囚の刑を執行|newspaper=毎日新聞|date=2018-07-06|url=https://mainichi.jp/articles/20180706/k00/00e/040/163000c|author=和田武士|accessdate=2018-07-06|archivedate=2018-07-06|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180706025035/https://mainichi.jp/articles/20180706/k00/00e/040/163000c}}</ref>。
 
遺体の引取先に指定された四女とその代理人である[[滝本太郎]]弁護士が7月7日に麻原の遺体と対面した。滝本は「『麻原彰晃』とは思わなかった。松本智津夫として死んだと思った」と語る。また、埋葬地の[[聖地]]化を防ぐため海上に散骨することを提唱している<ref group="web">{{Cite news|title=四女側「遺骨、太平洋に」=警備など国に支援要請-オウム松本元死刑囚|newspaper=時事ドットコム|publisher=時事通信|date=2018年7月11日|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2018071100819&g=soc|accessdate=2018-07-20}}</ref>。
 
一方、麻原の妻[[松本知子]]・三女[[松本麗華]]らが遺体の引き渡しを求める要求書を上川法相らに提出している。同月9日に[[府中市 (東京都)|府中市]]内の斎場で[[火葬]]され、当面は東京拘置所において遺骨を安置することとなった<ref group="web">{{Cite news|title=【オウム死刑執行】麻原彰晃元死刑囚の遺体を火葬  四女「身の危険感じる」  遺骨は当面、東京拘置所に|newspaper=産経新聞|publisher=産業経済新聞社|date=2018-07-09|url=https://www.sankei.com/affairs/news/180709/afr1807090002-n1.html|accessdate=2018-07-13|archivedate=2018-07-13|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180713154007/https://www.sankei.com/affairs/news/180709/afr1807090002-n1.html}}</ref>。
 
== 麻原の子女 ==
麻原には、愛人が100人以上いたとされ、愛人とイニシエーションと称する[[性行為]]を行い<ref name="kohan19961108">[[1996年]][[11月8日]][[豊田亨]]/[[廣瀬健一]]/[[杉本繁郎]]公判での[[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]]の証言記録より</ref>、妊娠させた結果、妻の[[松本知子|知子]]の子である6人を含めて、12人ないし15人ほどの子がいるとされる<ref group="注">[[滝本太郎]]によると[http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/t-comment27.htm 12人]。四女の松本聡香『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』([[徳間書店]])によると15人。</ref>。麻原は在家信者なので子作りをしてもいいとされていた<ref>降幡賢一『オウム法廷7』 p.48</ref>。出生時に麻原が[[阿含宗]]にいたことや、「最終解脱」前に生まれたことが理由で知子の子の間でも[[オウム真理教の階級|ステージ]](階級)は異なる<ref group="web" name="tkst"> 滝本太郎ブログ「[http://sky.ap.teacup.com/takitaro/1850.html 宗教的な地位等とブログ | 『生きている不思議  死んでいく不思議』-某弁護士日記]」 2018年2月6日閲覧</ref>。
 
四女によると麻原は、村井秀夫または[[上祐史浩]]と長女、上祐と次女、[[石川公一]]と三女、遠藤と四女、[[新実智光]]と[[石井久子]]に産ませた娘を婚姻させる計画をたてていたという<ref>松本聡香『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』 p.191</ref><ref group="web" name="joyu2"/>。また、最終解脱するにはグルの娘との合一が必要とされていた<ref group="web" name="joyu2">{{cite web | url=http://hikarinowa.net/kyokun/joyu/cat215/post-2.html | title=【3】麻原彰晃とは何者だったか | 1.上祐総括:オウム入信から現在まで | 上祐史浩個人の総括 | オウムの教訓 -オウム時代の反省・総括の概要- | first= | last= | work=[[ひかりの輪]] | accessdate=2017-11-21}}</ref>。
 
当項目では、知子の子である6人を述べる。麻原の警備担当者によると、麻原は子煩悩で、おもちゃを沢山買い与えたり、[[エアコン|クーラー]]を用意したりして、蜂の巣ベッドに押し込められていた出家信者達や、カビの生えたものを食べていた出家信者の子供達とは違い、格段に良い生活をさせていた{{sfn|田村|1996|p=10}}{{sfn|田村|1996|p=25}}。美女3人が[[女中]]として一家の面倒をみていた{{sfn|田村|p=173}}。
 
麻原一家は[[上祐史浩]]率いる[[ひかりの輪]]とは対立関係にあり、ひかりの輪側は、松本知子・次女・三女は上祐の脱麻原路線に反対していた、四女は2007年時点において麻原崇拝グループを結成しようとしていたと主張している<ref group="web">[http://alephmondaitaisaku.blog.fc2.com/blog-entry-130.html アレフ問題の告発と対策 麻原三女『止まった時計』] [[ひかりの輪]]公式サイト 2018年4月15日閲覧。</ref><ref group="web">{{cite web|title=麻原四女の著書における、上祐代表に関する記載の誤りについて|publisher=[[ひかりの輪]]|url=http://hikarinowa.net/kyokun/generalization1/cat200/post.html|accessdate=2013-07-05}}</ref>。さらに家族内でも対立があり、特に四女と次女・三女の主張が異なるなど関係が悪化していた<ref group="web">{{cite news|url=https://news.infoseek.co.jp/article/joseijishin_d12306/|title=「三女の本は嘘ばかり」麻原彰晃四女が語る“一家”のいま- 記事詳細|newspaper=Infoseekニュース|accessdate=2018-03-21|archivedate=2015-06-06|archiveurl=http://web.archive.org/web/20150610020600/http://news.infoseek.co.jp:80/article/joseijishin_d12306/}}</ref>。
 
; 長女
: [[1978年]](昭和53年)生まれ。[[ホーリーネーム]]はドゥルガー。教団での地位は[[正悟師]]。[[省庁制 (オウム真理教)|省庁制]]の際には流通監視省大臣であった。
 
; 次女:松本宇未(うみ、仮名)<ref group="web">松本宇未ブログ [http://profile.ameba.jp/matsumoto-umi/ 木の葉が沈み石がうく]</ref>
: [[1981年]](昭和56年)生まれ。ホーリーネームはアジタナーター・カーリー{{Sfn|東京キララ社|2003|p=23}}。[[2000年]](平成12年)[[1)1]]に長男を連れ去ろうとした事件で[[2月19日]]に逮捕され、[[保護観察]]処分となった{{#tag:ref|逮捕理由は教団施設への「住居侵入」であるが、それは教団の実態は酷いと感じた次女が、長男を教団から救出・保護するための手段であったという<ref name="DYJN!">[[手塚愛一郎]]・[[松井武]]・[[山際永三]]・[[深見史]]『「悪魔のお前たちに人権はない!」学校に行けなかった「麻原彰晃の子」たち』[[社会評論社]]</ref>。|group="注"}}。
:麻原詐病説などについて四女と真っ向から対立し、四女はマスコミ受けの良い話をして金を得ていると批判している<ref group="web">松本宇未 [https://ameblo.jp/matsumoto-umi/entry-12048098554.html 八、「物語」の検証]、[https://ameblo.jp/matsumoto-umi/entry-12040378307.html 四、16歳の少女を手駒にする方法]</ref>。
 
; 三女:[[松本麗華]](りか)
: [[1983年]](昭和58年)[[4)4]]生まれ。教団での地位は正大師で[[ホーリーネーム]]はアジタナーター・ウマー・[[パールヴァティー]]・[[アーチャリー]]{{Sfn|東京キララ社|2003|p=7}}。省庁制の際には法皇官房長官であった。
: 2000年(平成12年)1月に長男を連れ去ろうとした事件で2月19日に逮捕され、保護観察処分となった。
: [[2004年]](平成16年)[[3)3]]に合格した[[和光大学]]から入学拒否されたとして提訴し、[[東京地方裁判所|東京地裁]]は「入学拒否は違法」と認定、和光大学に30万円の[[損害賠償|慰謝料]]支払を命じた。
: [[2013年]](平成25年)7月からブログを立ち上げ、麻原を案ずる文面をつづっている<ref group="web" name="shinoda2014">{{cite|url=http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20141206-00041272/|title=オウム麻原元教祖の娘が語った家族と教団の内情|author=[[篠田博之]]|date=2014年12月6日|accessdate=2014-12-7|publisher=[[ヤフー (企業)|ヤフー株式会社]]}}</ref><ref group="web">{{cite| url=http://blog.asahara-kousoshin.info|title=麻原彰晃の三女アーチャリーのブログ お父さん分かりますか?|accessdate=2014-12-7}}</ref>。
: 2015年3月19日、[[Nippon News Network|NNN]]系列の報道番組『[[NEWS ZERO]]』のインタビューで出演。初めて[[松本麗華]]という実名で登場する。
: 2015年3月20日、地下鉄サリン事件から20年目の日に松本麗華名義で手記『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』([[講談社]]、ISBN 978-4062194808)を上梓<ref group="web">[http://jp.wsj.com/articles/SB11871187576556893798304580529093996254312 地下鉄サリン事件20年、松本死刑囚の三女「アーチャリー」語る] ウォールストリートジャーナル日本版 2015年3月20日 2015年3月20日閲覧</ref>。[[ニコニコ生放送]]に出演して[[田原総一朗]]と対談した<ref group="web">{{Cite news |title=田原総一朗:「空気」によって突き動かされる怖さ――麻原彰晃・三女に聞く |url=http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20150324/440371/ |date=2015-03-24 |newspaper=BizCOLLEGE |publisher=日経BP |accessdate=2015-09-02}}</ref>。
 
; 四女:[[松本聡香]](さとか、仮名)
: [[1989年]](平成元年)生まれ。ステージは正大師よりも上の正報師<ref group="web" name="tkst"/>。茨城県龍ケ崎市に転居した時は、市の方針でその市の学校の転入拒否<ref name="KOSEKI" group="注">この要因は龍ケ崎市の転入拒否で市の戸籍を作って貰えなかったことが大きい。</ref>で2人の弟共々学校にも通えなかったという<ref name="DYJN!" />。協力者達のお蔭で何とか学校に通えるようになったものの、学生時代はいじめに遭い、中学の校長からは「父親の所行を考慮すれば貴方は死んでも仕方のない人間だ」と評された<ref>鈴木伸元『加害者家族』[[幻冬舎]]〈[[幻冬舎新書]]〉pp.87-88</ref>。
: [[2006年]](平成18年)に教団との関係を保つ家族のあり方に疑問を抱き、[[後見人]]となった[[江川紹子]]の下に身を寄せる(2007年に江川は後見人を辞任している<ref group="web">[http://www.egawashoko.com/c006/000237.html 未成年後見人の辞任について]江川紹子ジャーナル、2007年09月12日</ref>)。
: 麻原に死刑判決が下る2004年(平成16年)までは地下鉄サリン事件の詳細を知らず、自らインターネットや書籍を調べて自分に対する世間の冷たい視線の背景に初めて気付いた<ref>鈴木伸元『加害者家族』幻冬舎〈幻冬舎新書〉p.88</ref>。その後はオウムや一家と絶縁し、[[自殺未遂]]を繰り返す。[[ネットカフェ難民]]や[[ホームレス]]のような生活をしながらも贖罪の道を模索している。
: [[2010年]](平成22年)、ペンネーム「[[松本聡香]]」名義で著書『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』([[徳間書店]]、ISBN 978-4198627539)を刊行。
: [[2014年]](平成26年)のインタビューにおいても、自殺未遂が続いていることを明かし、「死にたいというよりも死ななくてはいけない」「オウム事件について知ってからは、幸せとか喜びを感じるたびに、オウム真理教は普通の人のそういう喜びを奪ってしまったのだなと感じざるをえない」と語った<ref group="web" name="shinoda2014" />。
: 三女の松本麗華については、[[2015年]][[3月20日]]に[[フジニュースネットワーク|FNN]]の取材に対し、「姉は被害者に対して謝罪していない」「本の内容はでたらめで私の知っている真実とは異なる」と語った<ref group="web">{{Cite news | url = http://www.fnn-news.com:80/news/headlines/articles/CONN00288590.html | title = 地下鉄サリン事件20年  松本死刑囚の四女に話を聞きました。 | publisher = [[フジニュースネットワーク|FNN]] | date = 2015-03-20 | archiveurl = http://web.archive.org/web/20150323143804/http://www.fnn-news.com:80/news/headlines/articles/CONN00288590.html | archivedate = 2015-03-23 | accessdate = 2018-07-08 }}</ref>。
: 2017年10月に実父・麻原彰晃と実母・松本知子に対して[[相続廃除]]を申請し、横浜家裁が認める審判をした。審判では両親が適切な養育をしなかったことや犯罪を行ったことで、四女が「重大な不利益を被り、現在もその影響が続いている」と認定された<ref group="web">{{cite web|title=相続人から麻原彰晃死刑囚らの除外認める  四女の申し立てに横浜家裁「両親の犯罪で重大な不利益」|publisher=産経新聞|url=http://www.sankei.com/affairs/news/171121/afr1711210044-n1.html|date=2017-11-21|accessdate=2017-11-30}}</ref>。
 
; 長男
: [[1992年]](平成4年)生まれ。教団から[[皇子]]、猊下の称号を与えられた。[[1996年]](平成8年)[[6)6]]に教団の教祖となる。
: 四女と次男同様学校に籍を置くことが許されず、ほとんど学校に通わせて貰えなかったという。姉や弟共々晴れて[[2001年]](平成13年)[[4)4]]から正式に学校に通うことになったが、始業式の日はテレビ局や新聞記者等が駆け寄ったため、協力者が追い払うことになった<ref name="DYJN!" />。学校生活では、次男同様友達は出来たようである<ref name="DYJN!" />。
:[[2014年]][[10月24日]]、[[アレフ (宗教団体)|Aleph]]に対し、[[名誉棄損]]による[[損害賠償]]4000万円の請求、ならびに写真と名前の無断使用の禁止を求める提訴を[[東京地裁]]に起こす。[[訴状]]ではAlephと密接な関係にあり、教祖になるかのように扱われ大きな精神的苦痛を受けたとした<ref name="YOMIURI ONLINE" group="web">[http://www.yomiuri.co.jp/national/20141024-OYT1T50112.html YOMIURI ONLINE「松本死刑囚長男「無断で名前使用」アレフを提訴」 ]</ref><ref group="web">{{cite |url=http://www.asahi.com/articles/ASGBS536NGBSUTIL02V.html|title=松本死刑囚の長男がアレフ提訴  「無断で名前使われた」|publisher=朝日新聞|date=2014年10月24日}}</ref>。
:この他、[[テレビ東京]]に対しても父智津夫の後継者のように報道されたとして訴訟を起こしたが、[[2018年]][[3月15日]]に敗訴<ref group="web">{{cite |url=https://www.asahi.com/articles/ASL3H5D4LL3HUTIL02K.html|title=オウム松本死刑囚の長男が敗訴  名誉毀損でテレ東訴える|publisher=朝日新聞|date=2018年3月15日}}</ref>。
 
; 次男
: [[1994年]](平成6年)生まれ。教団から皇子、猊下の称号を与えられた。1996年(平成8年)6月に教団の教祖となる。
: 小学1年生は1学期しか登校しておらず、その後は茨城県龍ケ崎市に引越し四女と長男同様学校に通えなかったが、協力者のお蔭で学校に通うことが出来た。しかし、約8か月も学校に通えていない時期が続いていたため、小学2年生から学校生活を正式にスタートした<ref name="DYJN!" />。
: [[2004年]](平成16年)秋、拘置所で麻原被告と対面し「会えてうれしいです」と声をかけたが、返事はなかった<ref name="asahi:06"/>。
: [[2006年]](平成18年)に[[春日部共栄中学高等学校|春日部共栄中学校]]に合格したものの、「麻原の息子」だという理由で入学を拒否された<ref group="web">{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4900/news/20060302i513.htm|title=「オウム松本被告の二男入学、私立春日部共栄中が拒否」|newspapaer=YOMIURI ONLINE|date=2006年03月02日|publisher=読売新聞社}}</ref>。次男らは、憲法で禁止された不当な差別によって精神的苦痛を受けたとして、共栄中学校に損害賠償を求める訴えを起こした<ref name="asahi:06">{{Cite news|title=私立中を賠償提訴へ 入学拒否の松本被告次男|newspaper=朝日新聞 朝刊|page=33|date=2006-04-07|publisher=朝日新聞社}}</ref>。
 
== エピソード ==
=== 尊師 ===
* オウム真理教の信者からは'''尊師'''、もしくは本来[[ヒンドゥー教]]の導師を指す'''[[グル]]'''と呼ばれ、[[信仰|崇拝]]の対象となっていた。「尊師」の使用を発案したのは[[新実智光]]であるとの証言がある<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録3』 p.51</ref>。著書では「'''真理の御魂 最聖 麻原彰晃尊師'''」名義を用いていた。教団は世界征服も画策しており、国家の[[憲法]]に相当する[[基本律 (オウム真理教)|基本律]]の草案では'''神聖法皇'''と呼称されていた。
* 初期のAlephでは尊師・グルの呼称の使用及び、写真・イラスト・その他その肖像を表したものを団体施設の祭壇及び個人所有の祭壇に備え付けることを禁じたが、2011年頃からは麻原の「生誕祭」や肖像の掲示を公然と行うようになり<ref group="web">{{cite press release | title = 信者1000人超と報告=事件知らぬ若年層に拡大―原点回帰も鮮明に・アレフ | publisher = 朝日新聞 | date = 2011-11 | url = http://www.asahi.com/national/jiji/JJT201111170060.html | accessdate = 2011-11-17|archivedate=2011-11-19|archiveurl=http://web.archive.org/web/20111119205436/http://www.asahi.com:80/national/jiji/JJT201111170060.html}}</ref>、「尊師」の呼称が復活した<ref group="web">{{cite web|url=http://info.aleph.to/news/201803.html#201803161521175396|title=3月20日に際して|publisher=Aleph(アレフ)広報部|date=2018-03-16|accessdate=2018-04-26|archivedate=2018-07-06|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180706031000/http://info.aleph.to/news/201803.html}}</ref>。
*Aleph分派の[[山田らの集団]]は「そそそそそそそ尊師、そそそそそそそ尊師、麻原尊師、麻原尊師」と大声で「尊師」を讃える[[オウムソング]]を歌っていた様子が報じられた<ref group="web">{{cite news|url=http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00387552.html|newspaper=fnn-news.com|publisher=FNN|title=オウム後継分派の実態|date=2018-03-19|accessdate=2018-03-19|archivedate=2018-03-19|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180319214342/http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00387552.html}}</ref>。
*妻の[[松本知子|知子]]は、「麻原」と呼んだのを[[上祐史浩]]に怒られて尊師と呼ぶようになった<ref>松本聡香『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』 p.44</ref>。
*[[端本悟]]と[[富田隆]]は太った麻原を影で「卑劣なブタ野郎」と呼んでいた<ref>[[佐木隆三]]『大義なきテロリスト』 p.146</ref>。
 
375行目:
*[[徳川家光]] - [[転輪聖王]]ではあったが[[島原の乱]]や[[不受不施派]]を弾圧したため、[[熊本県]]や[[日蓮正宗]]によるオウムバッシングの原因となる[[カルマ]]をつくってしまったとしている<ref name="choetsu2" />。
*[[近藤勇]]<ref>降幡賢一『オウム法廷5』 p.225</ref>
*[[朱元璋]] - 彼のように全国統一を達成したいと考えており、[[1994年]][[2月22日]]より、麻原一行は[[中華人民共和国]]の[[明孝陵|孝陵]](朱元璋の陵墓)などを訪問し、旅の途中、麻原は「1997年、私は日本の王になる。2003年までに世界の大部分はオウム真理教の勢力になる。真理に仇なす者はできるだけ早くポアしなければならない」「このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70tぶちまくしかない。」と[[世界征服]]を目指すことを説法した<ref group="判決" name="hanketu" />。
*[[チベット]]のタントラ修行者 - 過去世の[[松本知子]][[石井久子]]を妻としていた<ref name="choetsu2" />。
*[[イムホテプ]] - 道場では「宿命通」というアニメビデオを放映し、麻原の[[エジプト]]での前世の物語を展開していた。[[ジョセル|ジェゼル王]]に宗教的指導を施し、最古のピラミッドである「[[ジェゼル王のピラミッド|ジェゼル王の階段のピラミッド]]」を造ったとしている<ref name="takara30-199511">『[[宝島30]]』[[1995年]][[11月]]号「オウム真理教修行体験90日」[[大泉実成]]</ref>。
*[[帝釈天|有能神]] - 過去世の[[上祐史浩]]と[[杉浦実]]を養子としていた<ref name="choetsu2" />。
*[[ナーガ]]([[蛇神]])の国の王 - 過去世の[[松本知子]]が妻であった<ref name="choetsu2" />。
*[[フリーメイソン]]創始者 - 現在のフリーメイソンは[[物質主義]]になってしまったのでよくないのこと<ref>早見慶子『カルト漂流記 オウム篇』 p.184</ref>。
387行目:
*[[除冷淡天]]の王 - 過去世の[[青山吉伸]]を弟子としていた<ref name="choetsu2" />。
*[[カッサパ]]仏の弟子 - 過去世の[[新実智光]]の火遊びによって起きた火事で焼死したという<ref name="choetsu2" />。
*[[兜率天]]の軍人 - 天界軍の指揮官として[[阿修羅]]界と戦争し勝利した。過去世の[[石井紳一郎]][[石井久子]]が部下だった<ref>オウム『真実!六道輪廻』 p.181</ref>。
*[[宮沢りえ]]の夫 - 一部報道によると自称していたという<ref> 1995/8/28 [[日刊スポーツ]]</ref>。
 
395行目:
*オウム真理教において「最終解脱」とは、「煩悩や苦悩から解き放たれ、輪廻転生からも解放された状態」であるとしていた<ref>オウム20年目の真実~暴走の原点と幻の核武装計画~ - テレビ朝日</ref>。
*ヒマラヤでのクンダリニー・ヨーガによる修行中、麻原はさまざまな神秘体験をし、シヴァ大神やパールヴァティー女神の助けも得て最終解脱に至ったとされる。また、最終解脱に至る過程で、さまざまな神通力(後述)を得たと自称している<ref>月刊「マハーヤーナ」</ref>。
*しかし、高校生時代の井上嘉浩がそのことについて聞くと、「インド?  あれはパフォーマンスだ。実は渋谷の瞑想場で最終解脱したんだ」と答えたという<ref name="kyozo">ザ・ノンフィクション 虚像の神様</ref>。
*麻原は最終解脱をして戒律をも超越する存在であるとして、後述の通り[[ダーキニー (オウム真理教)|ダーキニー]]や肉食など己の欲望を満たす振る舞いを許されていた<ref name="kyozo"/>。
*別の宗教団体から「オウム神仙の会」創設メンバーとなり、出家制度などオウムの組織体制を作ったという元幹部Sによると、麻原が「一修行者」を名乗っていた頃、福生のスナックである宗教家に「私はヴィジョンとか光の体験はあります。どのような段階にあるのでしょうか?」と教えを乞いたそのたった二ヶ月後に「最終解脱した」と言い出し、その後の麻原の言動にも疑問を持ったことから「(麻原は)解脱者なんかじゃない」と思ったという<ref name="kyozo"/>。
417行目:
*成分分析 - [[砂糖]]と[[サッカリン]]の違いを検知。村井秀夫曰く「究極のグルメ」<ref group="web" name="choweb"/>
*[[透視 (超心理学)|透視]] - [[CTスキャン]]並<ref name="cho4-12"/>
*耐火 - 火傷しない(エネルギーが満ちているときだけ可能)<ref group="web" name="choweb">[http://web.archive.org/web/19990204023835/http://www.aum-internet.org:80/aum2/choetu/ あなたの持っている本当の力  超越神力] オウム真理教公式サイト(Internet Archive)</ref>
*道路情報 - 渋滞状況が分かる<ref group="web" name="choweb"/>
*速筆 - あっというまに本の内容をつくる<ref group="web" name="choweb"/>
*壁抜け - しかし取調室は抜けられなかった。取調官に「抜けられなくて申し訳ない」と謝った<ref group="web">[https://www.huffingtonpost.jp/2018/07/05/uiminoru_a_23475869/ 麻原彰晃死刑囚を取り調べた検事が語っていた「拘置所での素顔」 (オウム真理教事件)] [[ハフィントンポスト]]</ref>
*[[治療]]<ref name="cho4-12"/>
*機械修理<ref name="cho4-12"/>
433行目:
 
=== 空中浮揚 ===
*麻原は[[1985年]]頃のオカルト雑誌『[[ムー (雑誌)|ムー]]』の中などで[[岐部哲也]]が撮影した麻原が空中浮揚している写真を公開し、空中浮揚をテーマとした本や[[オウム真理教のアニメ|アニメ]]も製作するなど大々的に宣伝した。麻原によると初めて浮揚したのは1985年2月であったという<ref>麻原彰晃『超能力秘密の開発法』 p.15</ref>。上祐はやらせであったと後に語っている<ref group="web">「[https://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/47697/ 上祐氏暴露“空中浮揚はヤラセ” ]」 [[東京スポーツ]] 2012年10月15日</ref>。
*弁護士の[[坂本堤]]らが組織した「オウム真理教被害者の会」はこれをインチキと批判、公開の場で行えと要求し、その後[[坂本堤弁護士一家殺害事件]]が発生した<ref group="判決" name="hanketu"/>。
*坂本の後を継いだ[[弁護士]][[滝本太郎]]は、[[座禅]]を組んだままでの跳躍(ジャンプ)を[[エレクトロニックフラッシュ|ストロボ]]を使い早いシャッタースピードで空中にいる瞬間だけを狙って写真撮影することで「あたかも連続して飛んでいるように見える」ようにしたトリックだと主張し<ref group="注">事実、麻原の浮揚写真では[[髪]]が逆立ち、力んだ表情が見られる。</ref>、「[[空中浮揚]]なら自分でもできる」と、自ら「空中浮揚」した[[写真]]を信者に見せてまわり、多くの脱会者をつくっていたため坂本同様に命を狙われた([[滝本太郎弁護士サリン襲撃事件]]){{Sfn|東京キララ社|2003|p=46}}。
*松本麗華は空中浮揚が見たくて、麻原に依頼したところ「疲れているから」と断られた。ただし、身体が勝手に跳びはねる空中浮揚の前段階といわれる[[ダルドリー・シッディ]]という現象は何度も目撃している<ref name="yukan-news.ameba" group="web">[http://yukan-news.ameba.jp/20150407-4/ アメーバニュース2015年04月07日 麻原彰晃の三女が明かす半生と父への思い「矛盾の中で生きてきました」]</ref>。
*法廷では、麻原はもっとリラックスした感じで撮りたかったので写真は失敗作と述べた。何分ぐらい浮かんでいたのかと聞かれると返答に困り沈黙し、「脳波で答えている」と主張する一幕もあった{{Sfn|青沼|2007|p=331}}。また、[[石井久子]]は本当に見たと主張した{{Sfn|青沼|2007|p=205}}。
*麻原の弁護人を務めた[[安田好弘]]が法廷で空中浮揚してみたらと提案したところ、麻原は本気で飛ぼうと熱心に拘置所内で練習していたらしいが{{Sfn|森|2012|p=98}}、ついに飛ぶことはなく「超越神力」は証明できなかった。また法廷で[[井上嘉浩]]に対し「精神病だと思われているようだから、井上証人、そこで飛んでみてくれ」と頼んだが井上に拒否された<ref>降幡賢一『オウム裁判と日本人』 p.8</ref>。
 
=== 音楽 ===
* 音楽好きであり、盲学校中学部・高等部時代に、他の寄宿生らを集め[[西城秀樹]]や[[尾崎紀世彦]]の歌を歌う「松本智津夫ショー」を何度も開催し、盲学校生を困らせた{{Sfn|高山|2006|p=38}}。空き缶をマイクの代わりにして西城秀樹の当時のヒット曲「[[傷だらけのローラ]]」を歌ったこともある{{Sfn|高山|2006|p=38}}。校内で結成したバンドでもボーカルを務め、西城の「[[情熱の嵐]]」を十八番としていた<ref>『[[週刊朝日]]増刊 オウム全記録 -彼らの暴走は本当に終わったのか- 』[[朝日新聞出版]]、2012年7月、p.12。</ref>。
*オウム真理教でも大量の[[オウムソング]]・アストラル音楽を作詞作曲(実際は[[石井紳一郎]]らが作ったものも多いとされる)、自ら歌っていたほか、弟子の[[村井秀夫]]や[[青山吉伸]]にも歌わせていた。特に[[真理党]]の選挙応援で自ら「[[尊師マーチ|しょーこーしょーこー彰晃彰晃彰晃♪]]」「しょしょしょしょしょしょしょしょーこー!」などと自分の名前の入った歌を熱唱していた姿が有名である。しまいには交響楽団[[キーレーン]]を結成し指揮棒を握っていた。カラオケ好きも盲学校時代と変わらず、尾崎紀世彦や[[中村雅俊]]の曲を歌っていた{{sfn|田村|1996|p=31}}。麻原がオウムソングの中で好きな曲は「戦え!真理の戦士たち2」「黎明」「ロード・シヴァ」など<ref>『日出づる国、災い近し―麻原彰晃、戦慄の予言』、1995年、38頁</ref>。一方[[ジャズ]]や[[ロック音楽|ロック]]は嫌い<ref>麻原彰晃『尊師、麻原彰晃が斬る!』 p.178</ref>{{Sfn|東京キララ社|2003|p=38}}。
*[[うまかろう安かろう亭]]で若い女性信者に囲まれて[[カラオケ]]をしていたこともあり、[[井上嘉浩]]は麻原が女の子とキャッキャするのを見て[[VXガス|VX]]をかけてやろうかと思ったという<ref group="web">[[西田公昭]](2009)(2009)、「[https://wwwdoi.jstageorg/10.jst.go.jp/article14966/jssp/16/3/16_KJ00004622720/_article/-char/ja/.KJ00004622720 オウム真理教の犯罪行動についての社会心理学的分析]」『社会心理学研究』Vol. 2001年 16 No. 3 p. 170 A者=井上-183, {{doi~10.14966/jssp.KJ00004622720}}</ref><ref>降幡賢一『オウム法廷9』 p.90</ref>。
 
=== 視力 ===
449行目:
*麻原の調書によると、左目は全盲、右目は[[パラリンピック]]を目指していた高等部2年のとき0.3(熊本市立病院調べ)、薬事法違反のとき0.1(警察病院調べ)で、その後読書が困難になり、1989年頃から急激に悪化したが[[オウム真理教男性信者殺害事件|男性信者殺害事件]]のときには被害者の顔は見えていた、逮捕時には時々輪郭が見える程度に落ち込んでいて(失明しているとはいっていない)報道陣のフラッシュは全く分からなかったと語ったとされる<ref>降幡賢一『オウム法廷13』 p.250</ref>。また逮捕後、「麻原ノート」([[#逮捕|前述]])を自分で書いて弁護団に渡しているが、文字は書けたが解読してもらうのに時間がかかったという<ref group="web" name="note"/>。
*表向きには「信者への[[シャクティパット]]を繰り返したためエネルギーを消耗したうえ相手のカルマを負い、さらに目が悪くなり失明した」と説明されていたが{{Sfn|毎日新聞社会部|1995|p=15}}、他のオウム関連の裁判に証人として出廷した際、宣誓書を弁護士の言う通りに比較的短時間で書き上げ余白の部分だけ上手に切り取ったり{{Sfn|青沼|2007|p=329}}、[[宮沢りえ]]の[[ヌード]]写真集を持っていたとの報道や{{Sfn|東京キララ|p=129}}、[[観覧車]]や[[お化け屋敷]]に行ったり、子どもとキャッチボールをしていた<ref>降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち上』 p.24, 『オウム真理教大辞典』 p.88</ref>、[[パトカー]]を察知したり<ref name="hu7-184">降幡賢一『オウム法廷7』 p.184</ref>、[[生物兵器]]噴霧車に乗り込み指揮をしていた{{Sfn|青沼|2007|p=233}}、ガードレールを飛び越えた(ビデオに撮影されている)<ref>上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.295</ref>との証言もあり、失明に関しては疑惑がある<ref group="注" name="EYE">ただし、視力を失ってはいても、他の感覚([[聴覚]]や[[触覚]]等)で補っていたとする反論もある。</ref>。取調べの際も目が見えないことを強調し、それを理由に供述調書へのサインを拒むなどしていたが、「刑事さんは[[竜雷太]]みたいでカッコイイですね」や「刑事さん、[[太陽にほえろ!|太陽にほえろ]]の[[石原裕次郎|ボス]]みたいですね」と語ったり、的確に障害物を避けるなどをしている。麻原の兄は事件当時、インタビューに対して「(智津夫は)今でもちっとは見えとる」と推測<ref>藤原新也『黄泉の犬』 p,70</ref>、[[薬剤師リンチ殺人事件]]に関わった元信者<ref group="注">被害者の友人Y。執行猶予判決</ref>も視力が弱いとは聞いているが失明したという話は聞いたことがないと証言している<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録5』 p.124</ref>。オウムでは「救世主は盲目の人」という予言があり、これに沿うために全盲である必要があったのではとの説もある{{sfn|田村|1996|p=15}}。
*対して、[[松本麗華]]は完全に視力を失ったのは1989年の秋頃だったとする(その頃より、麗華と手をつなぎ、後に肩に手を置いて歩くようになっている)<ref name="kousoshin116" group="web">[http://blog.asahara-kousoshin.info/?eid=116 松本麗華公式ブログ「お父さん分かりますか?」『父が盲目であることについて』2015.05.14]</ref>。なお、左目は[[義眼]]であるという<ref group="web">[https://twitter.com/asaharasanjo/status/959337036233678848 松本麗華ツイッター 2018年2月2日](同日閲覧) </ref>。著書『止まった時計』の中で、[[フランス]]へ行ったとき、[[村井秀夫]]や[[石井久子]]はスーツ姿、麗華ら子供たちも普通の格好だったが、麻原だけは[[オウム真理教の衣服|クルタ]]を着用していた。もし、麻原に視力があったなら、それなりにまともな格好をしたのではなかったかと指摘している。これに象徴されるように、オウムが社会性をなくしていったのも麻原の目が見えないことと関連しているのではないかと麗華は考えている<ref name="rika"/>。
:[[1982年]]に無許可製造医薬品販売の容疑で麻原を取り調べた刑事は「事件後に実は目が見えているとか、そんな報道がずいぶんありましたよね。だけど、あのころからやっぱりほとんど見えていなかったね。どっちだっけな。片方は0・06だったね。もうひとつはほとんど見えていなかったよ。」と語っている。また「警察の取調べで刑事に盛んに媚びていたという情報がありました。刑事さんは石原裕次郎に似ていますねとか何とか言ったとか」という質問に対して「媚びはしないね。そういうタイプじゃない。どちらかといえば寡黙でしたよ」と語っている<ref>pp.308,311[[森達也]]『A3』[[集英社インターナショナル]]、2010年11月</ref>。
* [[1997年]][[1月31日]]に東京地裁で行われた第24回公判で麻原の隣に座っていた刑務官が大きくあくびをした際、それをじっと見てニヤリと笑ったことがある。<ref>[[毎日新聞]]社会部『オウム「教祖」法廷全記録〈1〉 恩讐の師弟対決』 1997年 p.370</ref>
 
=== 旅行 ===
* 1987年、「麻原の[[前世]]が[[古代エジプト]]のイムホテップ王であった」ということから、同人が埋葬されている[[ピラミッド]]の視察目的で[[エジプト]]ツアーを行った{{Sfn|東京キララ社|2003|p=23}}。後に麻原は自著において「ピラミッドは[[ポア (オウム真理教)|ポア]]の装置だ」と述べた{{Sfn|東京キララ社|2003|p=23}}。
* [[1992年]][[5月24日]]、[[スリランカ航空|エアランカ]]のチャーター機内で麻原の席に客室乗務員が座っていたため信者が激怒し暴れ、[[コロンボ]]に緊急着陸した<ref>NCC宗教研究所/富坂キリスト教センター共編『あなたはどんな修行をしたのですか?オウムからの問い、オウムへの問い』 p.238</ref>。
* 毎年のようにインドに行っていた。1992年11月12日、[[釈迦]][[悟り]]を開く[[瞑想]]に入った[[ブッダガヤの大菩提寺]]にある「金剛座」に座り、地元の高僧に下りるように言われたが従わなかったため、警官に引き摺り下ろされた<ref>「神話 聖地訪れ「私はブッダ」」『朝日新聞』東京朝刊、1995年10月22日、p.31</ref>。
* [[1993年]][[9月9日]]、[[オーストラリア]]で[[ウラン]]を探して[[原爆]]をつくるため[[塩酸]]などを持ち込み税関に止められ、係官が麻原に触れたため信者が激怒、口論となった<ref>NCC宗教研究所/富坂キリスト教センター共編『あなたはどんな修行をしたのですか?オウムからの問い、オウムへの問い』 p.227</ref>。
* [[日本航空]]に搭乗を拒否されたため、海外移動の際には[[全日本空輸]](ANA)や[[アエロフロート・ロシア航空|アエロフロート]]へ搭乗していた。なお、ANAに搭乗する際は[[ファーストクラス]]を貸し切りにすることが多かった<ref>『[[噂の眞相|噂の真相]]』1998年2月号</ref>が、専用の椅子を持ち込もうとして拒否されたこともある。
*麻原の家族と正大師は[[ファーストクラス]]、[[ホテル]]は市内で一番高いホテルに泊まっていた<ref>降幡賢一『オウム法廷5』 p.226</ref>。
* [[1993年]]夏、上祐史浩、[[新実智光]]、早川紀代秀と一緒に[[生物兵器]]散布車で[[皇居]]1周散布ドライブをしていた時、怖くなったらしく、途中で麻原だけ逃げ出した<ref>東京新聞 1995年10月23日付 朝刊23面</ref>。
 
=== 言動 ===
467行目:
* 被害妄想のほか病気になったといって騒ぐことがあり、ある日、信者で[[オウム真理教附属医院]]院長でもあった[[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]]に、「実は[[心臓]]に[[いぼ]]ができているんだ。何とかしてくれ」といった。これには林も困ってしまったという<ref name="kohan19961108" />。
*事件前は聖人として振る舞っていたが、事件後は裁判等で、真偽の程は定かでないが麻原の鬼畜エピソードが弟子から多々語られた。[[風評被害]]で困窮している[[宮崎勤]]の親族から機械を格安で買い取ろうとしたり、[[阪神淡路大震災]]の被災者に水を売りつけて儲けようとしていた、被災した神戸の[[長田区]]を訪れ「(被災者が)地獄、餓鬼、動物に転生した」と発言していたとの証言がある<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録3』 p.169, 353</ref>{{sfn|田村|1996|p=48}}。
*上祐は、2010年[[12月3日]]号の週刊誌『FRIDAY』誌での対談において「麻原は人の心を読む感受性は鋭く、[[超能力]]のようなものは確かにあったが、能力と人格が一致しない人物だった。麻原の根源は、逆恨みと[[被害妄想]]。弱視だった子供時代からの逆恨みを社会に広げた人物だ」と語っている<ref name="hikarinowa" group="web">[http://hikarinowa.net/public-info/pressreport/2010/friday2010123.html ひかりの輪 広報部サイト]</ref>。他にも、[[PSI (オウム真理教)|PSI]]を製作する際に調べた麻原の脳波が精神異常のそれと似ていることを指摘している<ref>[[上祐史浩]][[有田芳生]]『オウム事件 17年目の告白』2012年 扶桑社 p.130</ref>。オウムはこれを[[脳死]]の脳波に近いとし、「解脱者の脳波」として宣伝していた<ref>オウム『ボーディーサットヴァ・スートラ』1994年 巻頭</ref>。
*自身の逮捕について、1990年の[[オウム真理教国土利用計画法違反事件|国土法事件]]の時「世界的に名を残す宗教にオウム真理教はこれから発展していくんじゃないかなと。ただまあ、それだけになる条件をひとつだけ備えていませんけどね。・・・それは何かというと、それは教祖の逮捕です」と妙な予言をしていた<ref>降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち 下』 p.100</ref>。
 
=== 思想 ===
* ([[動物]]たちはどうやって救われるのか?)動物は[[カルマ]]があって動物になっているわけだから、カルマが解き放たれたとき、つまり[[死]]が救済だ。人間に生まれ変わることは救済にはならない。人間界自体が非常に低い世界だから<ref name="mahayana">麻原彰晃『マハーヤーナ・スートラ』[[オウム出版]]、1988年2月25日</ref>。(金魚や小鳥を修行者に生まれ変わらせたい)やっぱりポアをかけるしかないね。それはね<ref>「マハーヤーナNo.10」1988年</ref><ref name="ym1" group="web"> 弓山達也「[http://yumiyama.spinavi.net/?p=47 オウム真理教における体験談の変遷とその意味]」</ref>。
* (人間の[[転生]]については?)現代人は、[[地獄]]か[[餓鬼]]、動物に生まれ変わると思って間違いない。なぜなら[[殺生]]をする、[[盗み]]をする、[[邪淫]]をする、[[嘘]]をつく、[[酒]]は飲む。これはもう救済の方法がないと考えたほうがいい<ref name="mahayana" />。
* ([[ゲイ]]は救われるか?)徳が高ければ、天界(戯忘天)の男しかいないホモの世界に行けるが、徳が無いと地獄行きになる<ref>麻原彰晃『超越神力2』 p.210</ref>。
477行目:
*(独裁者について)[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は政治的独裁者、[[毛沢東]]は思想的独裁者。彼らと違った存在として宗教的独裁者を目指そうとした。政治的独裁者、思想的独裁者を目指したことはない<ref group="web">[http://web.archive.org/web/19990203145919/http://aum-net.com:80/ben4-26.htm ●「独裁者の意味合い] オウム真理教公式サイト(Internet Archive) </ref>。[[ヒトラー]]はわざと負けた形跡がある。未来予知で世界の歴史の流れを読み、一人の登場人物としての役割を演じたのだろう<ref>麻原彰晃『滅亡から虚空へ』 p.41</ref>。[[毛沢東]]は神に繋がる人物だ<ref group="web" name="joyu1"/>。
*([[進化論]]は正しいか?)一部は正しいが全体的には間違いだ。サルと人間の中間の魂が存在するとは思えない<ref>麻原彰晃『尊師に聞く!2』 p.85</ref>。
*(日本について)[[大和民族]]は[[釈迦族]]の末裔である可能性が高く選ばれた民だが<ref>麻原彰晃『尊師に聞く!2』p.107</ref>、[[キリスト]](自分のこと)を迫害した[[カルマ]]により[[ハルマゲドン]]によって壊滅するだろう。しかし、その後オウムの力によって日本が中心の時代が来る<ref>麻原彰晃『日出づる国災い近し』 p.292, p.342</ref>。
 
=== 宗教観 ===
486行目:
 
=== マスメディア関連 ===
* 多くの著書を出し、[[ベストセラー]]になった。中でも『キリスト宣言』は[[1991年]](平成3年)[[11)11]]の全国月間ベストセラーランキングで3位を記録した<ref>「11月のベストセラー」『日経産業新聞』1991年12月17日付、6頁。</ref>。『麻原彰晃の世界パート13・これが尊師!(ISBN 978-4-87142-021-1)』は[[1992年]](平成4年)[[2月]]の全国月間ベストセラーランキングで4位を記録し<ref>「2月のベストセラー」『日経産業新聞』1992年3月17日付、6頁。</ref>、以後[[5月]]までベストセラーのトップテンにランクインし続けた<ref>「4月のベストセラー」『日経産業新聞』1992年5月12日付、6頁。</ref><ref>「5月のベストセラー」『日経産業新聞』1992年6月16日付、6頁。</ref>(ランキングは[[日経産業新聞]]に掲載されていた[[トーハン]]・[[日本出版販売|日販]]調べによるもの)。
* [[衆議院議員総選挙|衆院選]]出馬していた時、記者から「もしも、麻原さんが[[内閣総理大臣|総理大臣]]になった場合、日本の国民の全員がオウム真理教に入信しなければならないのか」と尋ねられ、麻原は「例えばチベットはもともと、今はラマ教あるいはチベット密教と言われていますけれども、そういう宗教のほかに、今の神道みたいな宗教があるんですけれど、それをずっと保護してきているわけですね。同じように、宗教というのは、信仰というものは、それぞれ個人が自分の好きな宗教を選べばいいと思いますので、そういうこと、つまり、全員が入信しなければならないというようなことはありません。」と語った<ref group="web">[[スペースJ]](2000年4月)[http://www.youtube.com/watch?v=rVSZvg00M-k]</ref><ref group="web">[http://web.archive.org/web/19990203145919/http://aum-net.com:80/ben3-17.htm ●公安庁主張の政治目的は存在しない] オウム真理教公式サイト(Internet Archive) </ref>。
* 日本テレビ『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』内のコーナー「[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!#名物コーナー|麻原彰晃の青春人生相談]]」で、女性視聴者からの「尊師は髪を洗う時に[[リンス]]は使っているんですか?」という質問に対して「リンスは使っていません。[[シャンプー]]はベビーシャンプーを使っています」と返答した<ref group="web" name="buzzfeed20180707">{{Cite news | url = https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/shoko-tv?utm_term=.biXPo66zy#.qj08avvVd | title = オウム真理教の麻原彰晃がビートたけし、とんねるずに語ったこと | publisher = [[BuzzFeed Japan]] | date = 2018-07-07 | accessdate = 2018-07-08 }}</ref>。
494行目:
|publisher=タイム
|accessdate=2013-07-15
}}</ref>。これは日本人としては[[1987年]][[8月31日]]号の[[マシ・オカ|岡政偉]]以来、約7年半振りである<ref>[[タイム (雑誌)#表紙を飾った日本人]]</ref>。
*『朝まで生テレビ』に出演した際、[[幸福の科学]]サイドの[[景山民夫]]が公園で犬の糞を拾うことこそ幸福の科学の教えの真髄であると30分間以上に渡り熱弁したことがあった。これに対し麻原は後に「犬のウンコであろうと人間のウンコであろうと、本当は自然に返って、それが肥料となって、例えば糞そのものも微生物の栄養分になるわけだから、還元してあげてもいいわけだよね」と語っている<ref>麻原彰晃『自己を越えて神となれ!』 p.164, 211</ref>。
* 1995年5月に[[TBSテレビ|TBS]]で放送された『[[JNN報道特集|報道特集]]』における[[オウム真理教]]のドキュメンタリーで、関係のないシーンで30分の1秒単位という知覚できない速度で急に麻原の顔写真や[[キリスト教]]の[[裏切り]]者をあらわす[[イスカリオテのユダ]]の[[サブリミナル効果|サブリミナル]]カットが何度も放映された{{Sfn|東京キララ社|2003|pp=59-60}}。その後、TBSは[[郵政省]]による事情聴取ののち厳重注意を受けた{{Sfn|東京キララ社|2003|p=60}}。
* [[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]、[[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]]が製作したアニメ『[[シティーハンター (アニメ)#シティーハンター3|シティーハンター3]]』第11話([[1989(1989]][[12月24日]]放送)の中で麻原の画像のカットが使用され{{Sfn|東京キララ社|2003|p=59}}、[[1995年]][[5月2日]]に発覚。読売テレビは同年5月23日付で[[郵政省]]から「番組基準の遵守を問われるような放送を行い、社会問題を引き起こした」として[[行政指導]]を受けた<ref> 鈴木秀美・山田健太・砂川浩慶 編『放送法を読みとく』p.83 2009年 商事法務</ref>。
 
=== 女性関係 ===
* 妻の[[松本知子]]のほかにも、[[石井久子]]{{Sfn|東京キララ社|2003|p=15}}、タントラギーター{{Sfn|東京キララ社|2003|p=89}}、スメーダー{{Sfn|東京キララ社|2003|p=77}}、イシュタ・ヴァジリニー{{Sfn|東京キララ社|2003|p=16}}、マハームドラー・ダーキニー{{Sfn|東京キララ社|2003|p=125}}の愛人がいた。[[江川紹子]]は麻原に強姦されたと語る女性を取材している<ref>『「オウム真理教」追跡2200日』 p.133</ref>。四女の著書によれば、教団内に愛人は約100人おり、夜毎尊師の部屋には彼女たちが入れ替わり立ち代り呼ばれたが、その際には妻である松本知子は部屋の前で落ち着きなくうろうろしていた。なお、女性信者を誘う際「今度、特別なイニシエーションがあるから」と称していた<ref>『[[週刊朝日]]増刊 オウム全記録 -彼らの暴走は本当に終わったのか- 』[[朝日新聞出版]]、2012年7月、p.50。</ref>。林郁夫の法廷で「麻原はうまくて、人にものを頼むときなどに個人に対して言い訳をする。麻原はサティアンの一室で女の子たちをイニシエーションと称して可愛がっていたが、私がそのことを知ってしまった際、麻原に呼び出され、『お前たちセックスがどういうときにするか知っているか? それはな、高い世界から魂を呼び出すときにやるんだぞ』といい、麻原がそういうと皆信じてしまう」と証言した<ref name="kohan19961108" />。麻原の性癖については[[ダーキニー (オウム真理教)#麻原の性的嗜好|ダーキニー#麻原の性的嗜好]]を参照。
*女好きについては自覚があったようで「[[クリシュナ]]は[[シヴァ]]神の化身で、普段はぼうっとして女と戯れて遊んでばかりいるんだが、戦うときには相手を一気に殲滅するんだ。これはおれにそっくりだろう」と語っていた<ref group="判決" name="wa141">[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/572/005572_hanrei.pdf 平成7合(わ)141  殺人等  平成16年2月27日  東京地方裁判所]</ref>。
* 恐妻家であり、「([[石井久子]]との)不倫がばれたら[[松本知子|知子]]に殺される」と怯えていた<ref>上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.120</ref>。
 
509行目:
 
=== 嗜好 ===
* 実家は貧しかったが、父が旧[[金剛村]]で最初にテレビを購入しており、子供のころ、そのテレビで[[あんみつ姫]]や[[8マン]]をよく観ていたという{{Sfn|高山|2006|p=19}}。後に[[未来少年コナン]]、[[宇宙戦艦ヤマト]]、[[機動戦士ガンダム]]から用語を拝借し説法のネタにした{{Sfn|青沼|2007|p=215}}。また、[[伝説巨神イデオン]]はオウムに似ている、[[地球へ…]]のキャラであるジョミー・マーキス・シンは自分と似ているなどと話していた。[[宇宙戦艦ヤマト]]主題歌の替え歌を歌ったこともある<ref name="k" group="web">[http://wayback.archive.org/web/20160305060443/http://hikarinowa.net/kyokun/brethren/cat203/07.html 小林由紀  「オウムの事件と病理の総括」 (Internet Archive)] [[ひかりの輪]]</ref>。盲学校時代には[[柔道一直線]]に影響されて鉄下駄を履いていたこともあった{{Sfn|高山|2006|p=53}}。
* 幼少期は女の子と[[おままごと]]、小等部では[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]ごっこ、中等部では[[プロレス]]ごっこをやっていた<ref name="znkrk">週刊朝日増刊『「オウム全記録」』 p.12</ref>。
* 専攻科時代、運動会の応援団長を務めることになった松本は、運動会当日[[モヒカン刈り|モヒカン頭]]の出立ちで現れ周囲を驚かせた{{Sfn|高山|2006|pp=47-48}}。
* よく盲学校の劇の脚本・主演を担当、18歳のときには女の子を襲うチンピラを倒す正義の味方を演じた。脚本は上手なほうで評判はよかったが、チンピラ役の生徒からは不評だった{{Sfn|毎日新聞社会部|1995|p=30}}。
* このままでは来世は[[読売巨人軍]]のピッチャーになることになっていたが、修行が進んだ結果回避されたという{{Sfn|東京キララ社|2003|p=44}}<ref name="choetsu2" />。また56億年後には[[弥勒菩薩]]となる魂であると自称した<ref name="hykw120">[[早川紀代秀]]、[[川村邦光]]『私にとってオウムとは何だったのか』 p.120</ref>。
* [[1995年]][[3月22日]]の[[捜査#強制捜査|強制捜査]]後に公開された手記の中で「[[マハーポーシャ]]ブランドの[[コンピュータ|コンピューター]]は個人ユーザーの間では1、2を争う売り上げをなしている」とし、コンピューター雑誌『DOS/V FAN』の創刊号アンケートで3位になったことを根拠に「[[IBM]]に次ぐ大企業に発展」としていた<ref name="takarajima30">『宝島30』1995年5月号、[[宝島社]]</ref>。
*麻原の本棚には『[[我が闘争]]』があった{{Sfn|高山|2006|p=124}}。また、ヒトラー生存説や[[ハルマゲドン]]を書いた『滅亡のシナリオ』([[川尻徹]]作)のファンであった<ref>[[大田俊寛]]『オウム真理教の西精神史』 p.204</ref>。
*[[血液型性格分類]]に興味を持っていた<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録6』 p.118</ref>。
524行目:
* [[毒ガス]]に心酔していた麻原だが、一方で[[キンチョール]]のCMは殺生を奨励していると批判していた<ref>麻原彰晃『マハーヤーナ・スートラ』 p.40</ref>。
* 時期によって服の色が異なる。初期は「[[小乗|ヒナヤーナ]]」を表すオレンジ色の服、真理党出馬の前後は「[[マハーヤーナ]]」を表す白色の服、その後一時期は「純粋な帰依」を表す青紫色の服、末期は「最高の色」である赤紫の服を着ていた<ref>森達也『A4』 p.109</ref>。
* ヒゲを伸ばし放題にした独特な風貌をしていた。[[三重県]]で活動していた芸術家グループが、ヒゲもじゃだらけだったことからオウムと疑われ、警察が出動したという[[風評被害]]もあった(芸術家ということでヒゲもじゃが多かった)<ref>「オウムで迷惑」 読売新聞(中部) 1995年6月27日</ref>。
 
===食べ物、動物 ===
546行目:
* 1審の初公判で裁判長に「(本名は)『松本智津夫』ではないのですか」と尋ねられたとき「『松本智津夫』という名前は捨てました。(今の名前は)『麻原彰晃』です」と述べた。
* 他の証人が証言している最中に割り込んだり、ツッコミを入れたり、つぶやいたり、突然大声を発することがあった<ref>{{cite news|title=[オウム裁判]松本智津夫被告・第35回公判 「教祖の法廷」全記録(その2止)|date=1997-04-26|page=17|newspaper=毎日新聞 東京朝刊|publisher=毎日新聞社}}</ref>。[[阿部文洋]]裁判長は「私もね、たくさん裁判をやってきたけど、あなたのようにね、静かにできない被告人はいないよ」と語り、法廷は笑いに包まれた<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録2』 p.31</ref>。
* 「アイ  キャン  スピーク  イングリッシュ    リトル<ref group="web" name="ICAN">[https://abematimes.com/posts/3872224 地下鉄サリン事件から23年、真相を語らなかった松本死刑囚  森達也氏「麻原裁判は、やり直されるべき」 | AbemaTIMES] 2018年3月18日閲覧。</ref>」など誤った英語で話し出すことが多かった。英文法的には間違いが目立っていたが、単語は難易度の高いものを使っていた。さらに基本的な単語を忘れた時、弁護人が教える場面も見られた。[[豊田亨]]の弁護人から「なんか、あなた、都合が悪くなると英語をしゃべってるようにみえる」と指摘されたこともある<ref name="hu10-167">降幡賢一『オウム法廷10』 p.167</ref>。さらに豊田の弁護人に「脳波通信」を試み、脳波で映像を発信するから受信しろと要求した。豊田の弁護人が「修行してないから受信できない」と断っても「送信」し続けた<ref name="hu10-167"/>。
* 痔を患っていたためか裁判中よく揺れていた<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録5』 p.112</ref>。
*傍聴席を向き人差し指で空中に「無」「罪」と書いてみせるパフォーマンスもあった<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録4』 p.119</ref>。
570行目:
*[[遠藤誠一]]への拘り。
**「たぶん[[遠藤誠一]]君が、オウム真理教、それから日本を統治したかったのかもしれない。私の奥さんも巻き込まれた。90年か89年か、入ってきたときから変だった<ref>降幡賢一『オウム法廷10』 p.127</ref>」
**「[[遠藤誠一]]君の、[[大腸菌]]を増殖した、高級な大腸菌が撒かれた<ref>降幡賢一『オウム法廷10』 p.126</ref>」
**「私は[[遠藤誠一]]に殺された者です<ref>降幡賢一『オウム法廷13』 p.18</ref>」
*勝手に死亡宣告。
**「[[朝まで生テレビ]]でテレビ中毒になりまして、保釈書を書いた裁判官が3人殺されまして、身元引受人は[[中沢新一]]{{Sfn|青沼|2007|p=145}}」
584行目:
**「退廷させて死刑場につれていくのはOKだ<ref name="hu13-655"/>」
**「射殺したければ射殺すればいい<ref name="hu13-655"/>」
**「[[坂本堤]]が言ったことが異常だ<ref>毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録3』 p.263</ref>」
*[[ 2000年]][[4月4日]]の第153回公判で弁護士[[滝本太郎]]が証人として出廷した際には、滝本に対し「バカ」「出て行け」と怒鳴ったり、刑務官に八つ当たりして殴りかかるなどした<ref>降幡賢一『オウム法廷12』 p.33</ref>。
**「憲法違反だ<ref name="vi86"/>」
**「いろんなところに息子をつくってどうする。自害しろ<ref name="vi86">毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録6』 p.85-86</ref>」
594行目:
 
==== 拘置所での奇行 ====
* [[1996年]][[10月18日]]の第13回公判([[井上嘉浩]]証人が出廷)から帰った後、「俺の弟子は…」「[[新実智光|新実]]の言ったことは嘘だ」と泣き叫びながら独り言を言ったり、大声を出したり、扉を叩いたり、独房に[[チーズ]]を投げつけるなどの奇行を始める。このため保護房に移された<ref group="web" name="nanzan"/><ref>降幡賢一『オウム法廷2下』 p.211</ref>。
* 拘置所の看守や接見した弁護士に対しても不規則発言をしていた。さらに、弁護士との接見もしだいに「くだらない」「釈放されているからいかない」などとして拒否するようになった<ref name="han160">判例タイムズ1232号 p.160</ref>。[[2000年]]頃から拘置所内でも会話不能になる<ref group="web" name="nanzan"/>。
**「声が聞こえている」<ref name="han158"/>
603行目:
**「私は気が狂うかもしれない。夢の中で変なものが見えるし、聞こえたりする」<ref name="han166"/>
**「[[松本麗華|アーチャリー]]はどこにいる」<ref name="han166"/>
**「ここは拘置所ではない。[[日本テレビ]]です。わたしはここに拉致されて監禁されている」<ref name="han160"/>
**「80日間グルグル回されて精神病になっている」<ref name="han160"/>
**「心臓が止まっています。止まっても生きているんです」<ref group="web" name="nanzan"/>
622行目:
* 1審で死刑判決を受けたとき独房で「何故なんだ! ちくしょう!」と叫んだ<ref group="web" name="nanzan"/>。このことは裁判所による控訴棄却決定要旨にも記述されている。[[精神鑑定]]で正常と判断された根拠の1つに、腕を捻って「痛い!」と言ったことが挙げられる<ref group="注">ただし、麻原以外の精神障害者でもこのようなことをされれば痛みを訴えることはある。</ref>。
* 朝になると「ショーコーショーコー!」と叫んでいた{{Sfn|森|2012|p=261}}。
* 獄中で糞尿を垂れ流すため、40代半ば頃から[[おむつ]]を使用していると報じられている。風呂にも自力で入れない為看守等に洗われるわけであるが、体に付着した[[糞|大便]]のせいで風呂場は汚物まみれの極めて不衛生な状態とまでなるとのこと。掃除の際は飛び散った大便を[[ブーツ|長靴]]で踏んで排水口に流せるほど細かくして流し、[[クレンザー]]で[[殺菌]]するらしい<ref>麻原控訴審弁護人編『獄中で見た麻原彰晃』インパクト出版会、2006年。</ref>。
* {{要出典範囲|獄中での食事は、他の者がその日の[[献立]]による普通の食事であるのに対し、麻原の場合は同じ献立の食事のメニューを全て1つの食器に入れて、それを食べさせているという。食事に使う食器は[[スプーン]]で、このスプーンは[[デンプン|澱粉]]製である|date=2018年7月}}<ref group="注">これは誤ってスプーンを食べてしまっても大丈夫なようにとの拘置所側からの配慮である。</ref>。
* 控訴審の弁護人である松井武によると、麻原は[[東京拘置所]]における松井との接見の最中に服の上から股間を擦り、さらに[[陰茎]]を露出させて[[自慰行為]]をおこない、[[射精]]に至ったという<ref>麻原控訴審弁護人編『獄中で見た麻原彰晃』インパクト出版会、2006年、p.101</ref>。自分の娘たちとの接見でも自慰行為を行ったことがあった<ref>「独占手記『麻原彰晃四女』獄中の父が『詐病』と悟った瞬間」『[[週刊新潮]]』2008年2月7日号</ref>。2005年8月、3人の娘と面会の際には麻原はせわしなく動かしていた手を止めると、スウェットパンツの中から性器を取り出すと[[自慰行為]]を始めた。3人の娘たちが沈黙している不自然な空気を感じ取った看守が気付き「やめなさい!」と制止したものの、3回ほど繰り返した。3人の娘たちは絶句したまま呆然と父の自慰を見つめたまま接見時間の30分が過ぎた<ref name="watashiha naze"/>。
* 独房での生活について、東京拘置所の関係者は、HIV感染者や覚醒剤中毒者などがいる病舎の、看守も勝手に近付けない隔離独房で糞まみれになっていて、「独房でおむつの中に糞尿をたれ流したり、接見室でマスターベーションをしたりと、廃人同然の有様です」と語った<ref group="web">[http://www.asagei.com/excerpt/3619 麻原彰晃「6月死刑執行」の戦慄現場!(2)独房で糞尿を垂れ流して・・・](Asagei+)</ref><ref group="web">[https://www.dailyshincho.jp/article/2018/03280800/?all=1&page=3 「ただ為されるがままに生きている」東京拘置所での麻原彰晃の姿] デイリー新潮(「[[週刊新潮]]」2018年3月29日号 掲載分)</ref>。
 
== 著書 ==
麻原彰晃名義のみ記載。この他、オウムの書籍には実質的に麻原の説法集であるものも多い。
* 超能力「秘密の開発法」―すべてが思いのままになる! - 1986年([[大和書房|大和出版]])
* 生死を超える ―絶対幸福の鍵を解く - 1986年
* 超能力「秘密のカリキュラム」健康編 ―癌・エイズだって怖くない!! - 1987年
* イニシエーション - 1987年
* マハーヤーナ・スートラ ―大乗ヨーガ経典 - 1988年
659行目:
*[[青沼陽一郎]] - [[フジテレビ]]「[[ザ・ノンフィクション]] 虚像の神様」(声のみ)
*[[和田洋一 (俳優)|和田洋一]] - 映画「[[地獄 (1999年の映画)|地獄]]」(麻原とよく似た「瘡原」役)
*[[古川悦史]] - [[NHK]]「[[未解決事件 (NHKスペシャル)|未解決事件]]」
 
== 脚注 ==