「遣唐使」の版間の差分

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'''遣唐使'''(けんとうし)とは、[[日本]]が[[唐]]たとされるが、『[[旧唐書]]』や『[[新唐書]]』の記述においては、「倭国が唐に派遣した[[朝貢]]使」とされる。中国では[[618年]]に[[隋]]が滅び[[唐]]が建ったので、それまで派遣していた[[遣隋使]]に替えてこの名称となった。[[寛平]]1年([[894年|965]]
 
[[894年|年]])に90年ぶりに再開が計画されたが、遣唐大使の[[菅原道真]]の建議により休止され、[[907年]]に唐が滅び、そのまま消滅する形となった㊗️㊗️アリア^_^死ねば
== 遣唐使の目的 ==
中国の先進的な技術や政治制度{{efn|遣隋使の留学生の622年の帰国者の薬師恵日らが、「唐国は法式備定の宝の国だから通交すべきだ」と上奏しており、それも受けた開始とされている{{sfn|石井正敏他(編)|2011|pp=38-39|ps=、森公章「東アジアの変動と日本外交」 }}。}}や文化、ならびに[[仏教]]の[[経典]]等の収集が目的とされた。[[白村江の戦い]]で日本が大敗した後は、3回にわたり交渉が任務となった{{sfn|石井正敏他(編)|2011|ps=、森公章「東アジアの変動と日本外交」 }}。[[旧唐書]]倭国伝には、日本の[[吉備真備]]と推察される留学生が、唐朝から受けた留学手当は全て書物に費やし、帰国していったと言う話が残されている{{sfn|東野治之|2007|p=120}}。