削除された内容 追加された内容
rvv
タグ: サイズの大幅な増減
1,129行目:
宗茂降伏後、家康は直ちに島津義久討伐を九州の全大名に命じた。最終的に家康に従った、九州の全大名が兵を動員して出陣し肥後水俣に進軍。これに対し島津義久は、ここで最終決戦を行おうと兵を総動員して北上させ、薩摩・肥後国境に軍を進めた。島津軍の指揮は、当主・島津義久みずからが執った。対する九州連合軍は、黒田、立花、鍋島、加藤である。[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]に義弘が、家康に謝罪の使者を送ったため島津征伐は中止となり、九州連合軍は撤退、以降家康と島津氏の間で交渉が行われた。島津義弘は関ヶ原の退却戦において傷を負わせた井伊直政に仲介を依頼したところ、直政はこの仲介要請を受諾し、以降徳川方の窓口として、島津義久、島津忠恒と戦後交渉をした。家康は義弘上洛の上で謝罪することを再三迫ったが、義久・忠恒は本領安堵の確約がない限りは上洛には応じられないとしてこれを拒否し、交渉は長期化した。島津側は家康に対し、そもそも家康の要請で義弘が伏見城守備に就こうとしたが、鳥居元忠に拒絶されたために止む無く西軍に加担したのであり、積極的な加担ではないと主張した。
 
その後2年にわたり交渉は続けられたが、義久が関ヶ原は庶弟義弘が言うことを聞かず勝手に参戦しただけで自分は与り知らないと通したため最終的に家康が折れる形で直筆の[[起請文]]を書き、[[1602年]](慶長7年)3月に[[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]・[[日向国|日向]]諸県郡60万石余りの本領安堵が決定された。決定後義久の名代として、忠恒が12月に上洛し謝罪と本領安堵の御礼を家康に伝え、島津氏も徳川氏の統制下に入った。忠恒は家康より偏諱を与えられ、以後家久を称する。このように粘り強い外交により、島津家は減地されることなく本領安堵を得ることができた。薩摩という、大坂から離れている地理的な利点は大きかったが、早い段階で家康に全面的な降伏をした毛利氏、上杉氏が大幅に減封されたことと比較すると、対照的な結果となった。
 
なお、薩摩に匿われていた宇喜多秀家は家康に引き渡され、前田利長と忠恒による助命嘆願により死罪を免れて[[1606年]](慶長11年)[[八丈島]]に流罪となった。