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=== 朝鮮戦争 ===
{{Main|朝鮮戦争|国境会戦 (朝鮮戦争)}}李承晩は第2回総選挙で支持母体である大韓国民党が惨敗したことから、北朝鮮に対して「''北進統一''」と強硬な姿勢を示すことで求心力を得ようとしたが、米国の不興を買うことになり、経済・軍事の両面での支援が停止された。北朝鮮は韓国とは対照的にソ連の支援を受けて、軍事力の増強を行っていた<ref>毎日新聞 1983年6月6日 朝鮮半島・分断と統一 (2)国際戦争へ拡大</ref>。[[File:Syngman Rhee 2.jpg|260px|thumb|[[金浦国際空港|金浦空軍基地]]に到着した[[ダグラス・マッカーサー]][[元帥]]を歓迎する李承晩。]]
 
[[1950年]][[6月25日]]、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)が[[大韓民国]](南朝鮮)に圧倒的な戦力で攻撃を開始、[[朝鮮戦争]]が勃発した。農繁期を理由とした兵士の休暇、総選挙による警戒態勢の解除、装備・戦力の差(特に対戦車装備の欠如)、同年6月行われた人事異動など様々な理由から<ref>[[#韓国戦争1(2000)|「韓国戦争〈第1巻〉人民軍の南侵と国連軍の遅滞作戦」韓国国防軍史研究所編(2000)]]</ref><ref>[[#ザ・コールデスト・ウインター上巻(2009)|ハルバースタム(2009)]]</ref><ref name="陸戦史集1">「陸戦史集1」陸戦史研究普及会(1970)</ref>、圧倒的な[[朝鮮人民軍]](北朝鮮軍)との人員・戦力・装備の差から[[大韓民国国軍]](韓国軍)は瞬く間に総崩れとなった。李承晩は開戦2日後の[[6月27日]]午前3時に特別列車でソウルから逃亡し、韓国では現在も批判されている<ref>ハンギョレ 2014-05-20 20:47 チョン・モンジュン、6・25の時に逃亡した李承晩「大きな失敗だが…」[http://japan.hani.co.kr/arti/politics/17404.html]</ref>。[[6月28日]]に[[ソウル会戦 (第一次)|首都ソウルは陥落した]]。その際、北朝鮮軍の進行を遅らせるために、[[蔡秉徳]]少将の命令により、[[漢江]]にかかる橋が爆破され([[漢江人道橋爆破事件]])多くの軍人・民間人を置き去りにする結果となった。また{{要出典|範囲=李承晩は、[[アメリカ軍]]や[[大韓民国国軍]]上層部と齟齬を来たすなどして、寧ろ厄介者扱いされることになった。|date=2017年9月}}
 
李承晩は開戦2日後の[[6月27日]]午前3時に特別列車でソウルから逃亡し、韓国では現在も批判されている<ref>ハンギョレ 2014-05-20 20:47 チョン・モンジュン、6・25の時に逃亡した李承晩「大きな失敗だが…」[http://japan.hani.co.kr/arti/politics/17404.html]</ref>。[[6月28日]]に[[ソウル会戦 (第一次)|首都ソウルは陥落した]]。その際、北朝鮮軍の進行を遅らせるために、[[蔡秉徳]]少将の命令により、[[漢江]]にかかる橋が爆破され([[漢江人道橋爆破事件]])、多くの軍人・民間人を置き去りにする結果となった。また{{要出典|範囲=李承晩は、[[アメリカ軍]]や[[大韓民国国軍]]上層部と齟齬を来たすなどして、寧ろ厄介者扱いされることになった。|date=2017年9月}}
 
首都ソウルの陥落後、李は政府を[[水原市|水原]]に移すと共に、自らは[[大邱広域市|大邱]]に逃亡する{{要出典|date=2018年9月}}もソウル北方の防御戦で北朝鮮軍を食い止めているとの情報を受けて大田まで戻った。しかし[[7月1日]]に大邱や大田にも北朝鮮のゲリラが浸透しているとの情報を受け、[[ジープ]]と列車で[[木浦]]まで向かった後、海軍警備艇に乗船して再び逃亡した{{要出典|date=2018年9月}}。翌[[7月2日]]の昼前、[[釜山広域市|釜山]]に到着した<ref>[[木村幹]]『韓国現代史 大統領達の栄光と蹉跌』(中公新書)47頁、64~66頁</ref>。
 
また釜山陥落に備えて日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる[[亡命政府]]を建設しようとし、日本側にGHQを通じて要請を行った<ref>庄司潤一郎「[http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j8_3_03.pdf 朝鮮戦争と日本の対応—山口県を事例として—]」45p</ref>。
 
1950年[[7月7日]]の[[国際連合安全保障理事会]]による[[国連軍]]創設決議案決議後、アメリカ合衆国の[[ハリー・S・トルーマン]]大統領の指名により、[[ダグラス・マッカーサー]]元帥が[[7月10日]]に初代国連軍司令官に任命された後、[[7月14日]]に李大統領は[[大韓民国国軍]]の指揮権を国連軍司令官に移譲した<ref>[[#田中(2011)|田中 (2011: 37)]]</ref>。[[1950年]][[9月15日]]のマッカーサー[[国連軍]]司令官による「[[仁川上陸作戦]]」により形成が逆転し、[[9月26日]]に国連軍が[[ソウル会戦 (第二次)|奪還]]し、[[9月28日]]に北朝鮮軍の掃討を経た後、[[9月29日]]に李は釜山からソウルへと首都を再遷都した<ref>[[#田中(2011)|田中 (2011: 56-66)]]</ref>。
 
国連軍のソウル奪還後、開戦以前の南北両政府の事実上の国境線であった北緯[[38度線]]を国連軍が北上することは[[ソビエト連邦|ソ連]]や[[中華人民共和国]]など[[共産圏]]の介入を招くのではないかと国連軍内部で問題となったが、「[[北進統一]]」を望む李大統領は[[丁一権]]参謀総長に大韓民国国軍の38度線北上を指示したため韓国軍は38度線を越え<ref>[[#田中(2011)|田中 (2011: 70-73)]]</ref>、既に国連軍司令官のマッカーサー元帥も38度線突破を決意していたこともあってこの大韓民国の独断突破は事後追認された<ref>[[#田中(2011)|田中 (2011: 70-75)]]</ref>。大韓民国国軍と国連軍は朝鮮半島の北進を続け、1950年[[10月19日]]には北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国の首都機能の存在した[[平壌]]に入城し<ref>[[#田中(2011)|田中(2011:73-79)]]</ref>、[[10月26日]]に[[林富澤]]大佐率いる[[大韓民国陸軍]][[第6歩兵師団 (韓国陸軍)|第6師団]]{{仮リンク|第7歩兵連隊 (韓国陸軍)|label=第7連隊|en|7th Infantry Regiment (South Korea)}}は[[楚山郡|楚山]]を攻略、中朝国境の[[鴨緑江]]に到達した<ref>[[#田中(2011)|田中 (2011: 79-81, 86-87)]]</ref>。
 
[[File:ChineseKoreanWarPoster.jpg|thumb|320px|「'''抗美援朝'''」と大書された[[朝鮮戦争]]([[1950年]]-[[1953年]])当時の[[中華人民共和国]]の[[プロパガンダ]]・ポスター。李大統領の指示による[[大韓民国国軍]]の[[38度線]]北上突破とその後に続いた[[国連軍]]の北進は、[[1949年]][[10月1日]]に建国されたばかりの成立間もない[[中華人民共和国]]の[[毛沢東]]主席に「'''保家衛国、抗美援朝'''」の標語の下で、[[彭徳懐]]司令官率いる[[中国人民志願軍]]('''抗美援朝義勇軍''')の直接介入を決断させ、朝鮮戦争を最初の東西[[冷戦]]の[[代理戦争]]とするに至った。]]
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朝鮮戦争の最中でも、李は野党の弱体化を目論見、野党の[[民国党]]のスポンサー的存在だった湖南財閥の中核・[[京紡|京城紡織]](京紡)の預金引き出しを停止する{{要出典|date=2018年9月}}。このため京紡は李派に資金供給先を変更し、民国党は強力な経済的基盤を失うこととなる<ref>木村幹、前掲書、第3章第5節。</ref>。
 
[[1952年]]1月18日には[[李承晩ライン]]を宣言した。このラインが撤廃([[日韓基本条約]])されるまでの13年間に日本漁船の捕獲事件などによる日本人抑留者は3929人、死傷者は44人を数え、人間として満足な生活をする権利すら与えられず、家族が送ってくる差し入れ品すら韓国警察によって中身が抜かれて届かなかったりした{{要出典|date=2018年9月}}。当時、李が語った「アメリカは余り信じるな。ソ連の奴らには騙されるな。日本は必ず再起する。注意せよ!」が韓国で流行語になった<ref>[http://ironna.jp/article/2232]</ref>。
 
同年には再び議会との対立が激化したが、政府は釜山に逃亡していた{{要出典|date=2018年9月}}。任期切れを控えていた李は、憲法の再選禁止を撤廃するために、三選までを許す改憲案を提出した。これに対抗して野党は議院内閣制案を提出した。李は戦時下の釜山に戒厳令を布告し、野党議員を大量に検挙した([[釜山政治波動]])。
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[[1953年]]、戦況が膠着した朝鮮戦争について、[[国際連合]]主導による[[休戦]]提案が出始めると、李は「停戦反対、[[北進統一]]」、「休戦は国家的死刑」を口にし最後まで休戦に反対し、「[[北進統一]]論」に基づいた朝鮮半島の大韓民国による統一にこだわった。しかし国際連合は、粛々と休戦への道筋を作り、[[6月8日]]に両軍の捕虜送還協定が締結された。
 
[[6月18日]]に、李はアメリカに何の予告も無く捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令して、抑留していた朝鮮人民軍捕虜2万5000人を北へ送還せずに韓国内で釈放する<ref group="註釈">同じ捕虜の解放とは言え、「送還」だと韓国が自らの責任を持って捕虜を北へ帰還させるのに対し「釈放」だと捕虜の本国への帰還が義務化されない{{要出典|date=2018年9月}}。{{要出典|範囲=李としては北の体制に否定的だった捕虜は自国内に止めて支持基盤に加えたかったと言われている。|date=2017年9月}}</ref>という事件を起こした。
 
正式に決まった協定を反故にする暴挙だったことから、国際世論の非難が高まった上に、北朝鮮内の中国人義勇兵([[中国人民志願軍|抗美援朝義勇軍]])の全面撤兵を李は要求し、早期休戦を望む国連軍やアメリカ軍と激しく対立した。[[7月16日]]のソ連の新聞『ソヴィエト・ニュース』は以下の様に報じている。
{{Quotation|ここ3年というものは李承晩について聞いたことがなかった。3年の間、南朝鮮のすべての問題はアメリカ軍司令官だけによって指令されており、李承晩は、釜山の奥にいるアメリカ軍の裏庭あたりにおあずけになっていた。……ところが、いま突如として、李承晩はあまりに強大かつ強力であるため、「国連軍司令官もアメリカ大統領も、またアメリカ議会も彼とは太刀打ちできない」と発表されている。ぶざまな茶番劇が上演されているのだ。|[[神谷不二]]『朝鮮戦争』}}
しかし、あまりにも尊大で強引な李は、件の捕虜釈放事件で孤立することになった。
 
李はやむなく休戦に同意し、[[1953年]][[7月27日]]に、大韓民国の政府要人が署名しないまま、[[中朝連合軍]]代表の[[南日]][[朝鮮人民軍]][[大将]]と[[国連軍]]代表の{{仮リンク|ウィリアム・ケリー・ハリソン・ジュニア|label=ウィリアム・ハリソン・ジュニア|en|William Kelly Harrison, Jr.}}[[アメリカ軍]][[中将]]が[[朝鮮戦争休戦協定]]に[[署名]]した。