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[[ファイル:Illustrerad Verldshistoria band I Ill 139.png|thumb|right|320px|硬貨に描かれたヒエロン1世(右)]]
'''ヒエロン1世'''({{lang-el|Ιέρων Α΄}})は、[[デイノメネス]]の息子、[[ゲロン (シュラクサイの僭主)|ゲロン]]の弟であり、[[紀元前478年]]から[[紀元前467年]]まで[[シュラクサイ(現在の[[シラクサ]])を[[僭主]]を務めとして統治した。彼の治世において、彼はシュラクサイの勢力を大いに高めた。彼は、[[ナクソス (シチリア島)|ナクソス]](現在の[[ジャルディーニ=ナクソス]])やカタナ(現在の[[カターニア]])からレオンティノイ(現在の[[レンティーニ]])に住民を移住させてカタナには[[ドーリア人]]を居住させ、アクラガス(現在の[[アグリジェント]])と同盟を結び、レギオン(現在の[[レッジョ・ディ・カラブリア]])の僭主[[アナクシラス]]と敵対する[[ロクリア人]]を取り受け入れた。
 
彼の最も重要な軍事的功績は、[[紀元前474年]]の[[クマイの戦い]]で[[エトルリア]]を破り、それにより[[カンパニア]]のギリシア人をエトルリア人による支配から守ったことである。この戦争を記念する碑文の彫られた銅の兜(現在は[[大英博物館]]に収蔵されている。)がオリンピアに奉納された。
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ヒエロン1世の治世は、ギリシアの歴史上初めての秘密警察が創設されたことで特徴付けられるが、彼は文学や文化の進歩的なパトロンであった。詩人[[シモーニデース]]、[[ピンダロス]]、[[バッキュリデース]]、[[アイスキュロス]]、[[エピカルモス]]や哲学者[[クセノパネス]]らは、彼の宮殿で活動した。彼はまた、全ギリシアの運動競技会にも熱心に参加し、馬レースや二輪馬車レースで数々の優勝を果たした。例えば、[[紀元前470年]]の[[デルポイ]]での二輪馬車レースや[[紀元前468年]]の[[オリンピア]]での二輪馬車レースで優勝した。
 
ヒエロン1世は、[[紀元前467年]]にカタナで死去し、その地で埋葬されたが、彼の墓はカタナの元の住人が戻ってきた際に破壊された。シュラクサイにおける僭主制は、彼の死後、わずか1年程度しか続かなかった。
 
==出典==