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中でも京都の金細工師である後藤四郎兵衛家に対する信頼は厚く、[[安土桃山時代]]には主に[[豊臣家]]の、江戸時代には必用ある毎に[[大判座]]を開設し[[徳川家]]の大判の鋳造を請け負った。
[[1874年]]([[明治]]7年)、小判や分・朱単位の金銀貨とともに、大判についても天正大判金を除きそれぞれの含有金銀量に基づいて定められた交換比率で新貨幣との交換レートが定められた。
== 種類 ==