「蔣介石」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
284行目:
台湾の研究者[[李君山]]は、このような列強の日本に対する実力制裁を期待する政略のために膨大な中国軍将兵が犠牲となったとして蒋介石を批判している<ref>李君山『為政略殉―論抗戦初期京滬地 区作戦』国立台湾大学出版委員会、1992 年。</ref>
 
南京事件の際に『倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ』と1938年1月22日の日記に記している<ref>(「蒋介石秘録12」P67~P70)</ref>。
 
戦争は[[1938年]]に入るとさらに激しさを増し、日本軍による海上閉鎖と航空機による爆撃により中華民国軍の重要な貿易港であった[[ポルトガル]]領[[マカオ]]が事実上日本軍の手に渡った。日本軍はさらに中国沿岸の港を全て閉鎖し、1938年後半に入ると海上からの一切の補給路の閉鎖に成功した。首都の南京が陥落したため内陸部の [[重慶市|重慶]]に首都を移動させ抵抗を続けていたが、海上補給路を断たれた後の補給は[[フランス領インドシナ]](=「仏印」、現[[ベトナム]]、[[ラオス]]、[[カンボジア]])、や[[イギリス]]領[[ビルマ]]、[[タイ王国]]などから陸路と空路で細々と得ることしかできなくなってしまった。(この蒋介石政権を支援する「[[援蒋ルート]](仏印ルート)」を切断するため、日本軍はのちに北部[[仏印進駐]]を実施した)。