「1925年ドイツ大統領選挙」の版間の差分

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最初の投票は[[1925年]][[3月29日]]に行われ、どの候補も過半数の得票を得られなかったので、[[中央党 (ドイツ)|中央党]]の[[ヴィルヘルム・マルクス]]、無所属保守派の[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]、[[ドイツ共産党]]の[[エルンスト・テールマン]]の間での[[決選投票]]が同年[[4月26日]]に行われた。この結果、[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]が相対的多数の票を得て当選した。
 
1回の投票では、当選には[[過半数]]が必要であるが、第2回では最多得票者が当選できる。第1回の候補者でなくとも、第2の投票に候補者として立候補できる。
 
== 候補者一覧 ==
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== 第1回投票 ==
1回投票で当選するには、絶対的多数つまり過半数での得票が必要であったがどの候補も過半数獲得はできなかった。
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== 2回投票 ==
1回の投票の結果を受けて、社会民主党、中央党、民主党(ヴァイマル連合)の3党は、統一候補を立てることで合意し、得票数が多いブラウンより元首相で知名度の高いマルクスの方が有利と判断し、マルクスを統一候補に決定した。一方国家人民党などの右派勢力は、ヴァイマル連合が団結するのを恐れて、より選挙に有利な候補を求めてすでに引退していた元参謀総長で国民的英雄のヒンデンブルクに出馬要請を行った。ヒンデンブルクは当初、[[オランダ]]にいた元ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]に遠慮して出馬を拒んだが、ヴィルヘルム2世からの許可が下りると第2回大統領選に出馬の意思を固めた。バイエルン人民党は、同じ[[カトリック]]の中央党と友党関係にあり(両党とも元は1つの政党)、カトリックのマルクスを支援すると思われていたが、党内の保守層に押されて[[プロテスタント]]のヒンデンブルク(ちなみに祖先に[[マルティン・ルター]]がいる)の支持に回った。ナチ党などの国粋主義の諸勢力は第1回投票ではルーデンドルフを支持したが、ヒンデンブルクの支持に鞍替えした。共産党はヴァイマル連合との協力はせず、テールマンが再び出馬した。
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== その他 ==
*共産党が第1回投票はまだしも第2回投票にまでテールマンを立候補させたことは、「左派勢力の票を割ってヒンデンブルクを助けた」と批判され、社会民主党と共産党の間で遺恨となった。テールマンの票をマルクスに加えればヒンデンブルクを上回り、政策的距離からしてテールマンに投票する層がマルクスよりヒンデンブルクを選ぶことは考えにくいためこの批判にはもっともな面があった。
*国防大臣を1920年から1928年まで務めた[[オットー・ゲスラー]]が、エーベルトの死亡した際、後任候補に名乗りを上げたが、[[グスタフ・シュトレーゼマン|シュトレーゼマン]]の反対にあい断念した。
 
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[[category:1925年の選挙]]
[[category:1925年のドイツ|たいとうりようせんきよ]]
[[category:ヴァイマル共和国の|たいとうりようせんきよ1925]]
[[Category:1925年3月]]
[[Category:1925年4月]]