「ナショナル・ギャラリー (ロンドン)」の版間の差分

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| accessdate = 2007-10-14}}</ref>。しかしウィルクスの主張は通ることなく、ウォルポールのコレクションは20年後にロシア女帝[[エカチェリーナ2世]]が全て購入し、現在は[[エルミタージュ美術館]]に収蔵されている。
 
[[File:Rubens - Judgement of Paris.jpg|thumb|left|『[[パリスの審判 (ルーベンス)|パリスの審判]]』(1636年頃)<br>[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]<br>オルレアン・コレクション由来の絵画]]
1798年に、オルレアン公[[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]]の美術コレクションだった[[オルレアン・コレクション]]がロンドンに持ち込まれ、国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]も首相[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]も購入に興味を示したが、結局このときも美術品の購入は実現しなかった<ref>{{Harvnb|Penny|2008|loc=466}}</ref>。ただし、現在のナショナル・ギャラリーには所蔵品番号「NG1」の『ラザロの蘇生』など、様々な方法で集められたオルレアン・コレクション由来の作品が25点収蔵されている。1799年には画商のノエル・デザンファンからイギリス政府に既存の絵画コレクション売却の打診があった。もともとはデザンファンと共同経営者だったスイス系イギリス人画家フランシス・ブルジョワ ([[:en:Francis Bourgeois]]) が[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]国王[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ|スタニスワフ2世アウグスト]]のためにそろえたものだったが、1795年に[[ポーランド分割|第3次ポーランド分割]]が行われ、国家自体が消滅してしまったために引き取り手がいなかったコレクションである<ref name="Taylor1"/>。しかしながらこの打診は拒否され、結局このコレクションはブルジョワが死去する際に自身の母校[[ダリッジ・カレッジ]]に遺贈した。このコレクションはイギリスで最初の公立美術館として1814年に開設された[[ダリッジ・ピクチャー・ギャラリー]]の前身となっている。1803年にスコットランド人画商ウィリアム・ブキャナンと美術収集家ヨーゼフ・カウント・トゥルホゼスが、それぞれ美術コレクションの購入を打診し、どちらも拒否されているが、後にこれらのコレクションはナショナル・ギャラリーの主要なコレクションとして所蔵されている<ref name="Taylor1"/>。