「平田篤胤」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
削除部分を復帰
編集の要約なし
60行目:
篤胤が求めたのはこの世の[[幸福]]であり、関心をいだいたのは死後の霊の行方についてであった<ref name=kagawa219/>。その霊の安定を神道に求めたのであり、それゆえ、神道は従来以上に宗教色を強めたのである<ref name=kagawa219/>。ここで篤胤は、天主教([[キリスト教]])的[[天地創造]]神話と『[[旧約聖書]]』的な歴史展開を強く意識しながら、[[天御中主神]]を創造主とする、きわめて首尾一貫した、かつ儒教的・仏教的色彩を完全に排除した[[復古神道]]神学を樹立したのであった<ref name=miyaji28/>。篤胤によれば、天・地・泉の3つの世界の形成の事実、そしてそれについての神の功徳、それは「御国(みくに)」すなわち日本が四海の中心であり、[[天皇]]は万国の君主であるということを、国学を奉ずる学徒の大倭心の鎮として打ち立てた柱、それが「霊の真柱」なのであった<ref name=kinsei223/>。
 
平田国学・復古神道が立論の根拠にしたのは古伝であったが、『古事記』などの[[古典]]に収載された古伝説には齟齬や矛盾、非合理がふくまれているため、篤胤は古伝説を主観的に再構成した自作の文章を注解するという手法を用いて論を展開した<ref name=tahara1060/>。また、古伝の空白箇所を埋めるために、天地開闢は万国共通であるはずだという理由から諸外国の古伝説にも視野を広げた<ref name=tahara1060/>。古伝説によって宇宙の生成という事実を解明し、幽冥界の事実を明らかにしていくのが彼の関心であるかぎり、これは自然なことであったが、漢意の排除と文献学的・考証学的手法の徹底を旨としてきた本居派からすれば、かれの手法は邪道であり、逸脱にほかならない<ref name=tahara1060/><ref name=chikuma/>。しかし、篤胤はそもそも古代研究を自己目的にしていたのではなかった<ref name=miyaji28/>。彼は、自身も含めた近世後期を生きる当時の日本人にとって神のあるべき姿と魂の行方を模索したのであり、そこで必要な神学を構築するためにこそ『古事記』『日本書紀』その他の古典および各社にのこる[[祝詞]]を利用したのである<ref name=miyaji28/>。『霊能真柱』は篤胤にとって分岐点ともいえる重要な書物だったが、本居派の門人達は、この著作の幽冥観についての論考が亡き宣長を冒涜するものとして憤慨し、篤胤を「山師」と非難したため、篤胤は[[伊勢国|伊勢]][[松市|松]]の[[本居宣長旧宅|鈴屋]]とはしだいに疎遠になっていった。
 
文化10年([[1813年]])、対露危機に関して情報を集めていた篤胤は、危機が一段落したこの時期に蒐集文書をまとめて『千島白浪』を編纂しており、同書には当然収めてはいないものの、幕府機密文書も入手している<ref name=miyaji28/>。篤胤は、ロシア情報を獲得するために[[ロシア語]][[辞書]]までみずから編纂していたのであった<ref name=miyaji28/>。文化12年([[1815年]])、のちに[[経世論]]者となる出羽国[[雄勝郡]]郡山村(現、秋田県雄勝郡[[羽後町]])出身で、篤胤より年長の[[佐藤信淵]]が入門した。