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落城後の大坂城は初め家康の外孫[[松平忠明]]に与えられたが、忠明に課せられた任務は大坂城下の復興であった。しかし[[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]5年)に忠明は[[郡山藩|大和郡山]]へ移封となり、[[江戸幕府]]は[[大坂藩]]を廃止して大坂を幕府直轄領([[天領]])にすると、翌[[1620年]](元和6年)から2代将軍[[徳川秀忠]]によって、豊臣色を払拭する大坂城修築工事が開始された。大坂城修築工事は1620年(元和6年)からの第一期工事で西の丸、二の丸北部・東部、三の丸、[[1624年]](元和10年)からの第二期工事で本丸、山里丸、[[1628年]]([[寛永]]5年)からの第三期工事で二の丸南部、と実に3期にわたる工事を行って[[1629年]](寛永6年)に完成した。
 
幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は[[徳川将軍家]]の歴代[[征夷大将軍|将軍]]自身であり、[[譜代大名]]から選ばれる[[大坂城代]]が預かった。他に大坂城代を補佐する[[定番 (役職)|定番]]2名(京橋口定番・玉造口定番)も譜代大名から選ばれ、[[旗本]]で編制された幕府の常備軍である[[大番]]2組(東大番・西大番)に加勢する[[加番]]4名(山里加番・中小加番・中小加番・雁木坂加番)が大名から選ばれた。なお、大番と加番は1年交代制だった。
 
[[江戸時代]]にはたびたび[[火災]]による損傷と修復を繰り返した。[[1660年]][[7月25日]]([[万治]]3年[[6月18日 (旧暦)|6月18日]])、城内青屋門の[[土蔵造り]]の焔硝蔵([[火薬庫]])に[[落雷]]して大[[爆発]]が起き、貯蔵中の2万1985貫600匁(約82.4t)の[[黒色火薬]]のほかに、鉛弾43万1079発、[[火縄銃|火縄]]3万6640本が焼失した<ref>渡辺武『大阪城歴史散策』(保育社、1992年)59頁</ref>。爆発の威力はすさまじく、城内では29人が[[死亡]]、およそ130人が負傷した。[[天守]]や御殿、[[櫓 (城郭)|櫓]]、橋など、多数の建造物が損壊。城外でも3人が死亡、[[家屋]]1481戸が倒壊し、多数の家屋の[[屋根]]が破損した。また、青屋門の扉が城から約14km離れた[[暗峠]]まで飛ばされたとの記録(「板倉重矩公常行記」)もある<ref>渡辺武『大阪城歴史散策』(保育社、1992年)60頁</ref>。後に[[江戸幕府|幕府]]は現存する石造りの焔硝蔵を建造した。特に[[1665年]]([[寛文]]5年)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城であった。