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== 歴史 ==
今日のエントレ・リオス州に初めて入植したのは、[[チャルーア族]]と[[グアラニー族]]で、それぞれ違う地域で生活していた。[[ロドリゲス・セラーノ]]が[[太平洋]]に向けてウルグアイ川を上った[[1520年]]に、[[スペイン人]]がこの地に足を踏み入れた。
もともとこの地には[[チャルーア族]]や[[グアラニー族]]が住んでいた。
[[スペイン]]からの独立戦争に際してエントレ・リオス州は[[アルティガス]]の[[連邦同盟]]に加わった。連邦同盟に属していたエントレ・リオス州の[[フランシスコ・ラミレス]]将軍は、統領のアルティガス将軍がポルトガルに敗北し、パラグアイに亡命した後も連邦同盟の将軍としてブエノスアイレスと戦い勝利したので、[[1820年]]から一年間、今のエントレ・リオス州と[[コリエンテス州]]と[[ミシオネス州]]を合わせて[[エントレ・リオス共和国]]を樹立した。
 
スペイン人による初めての恒久入植地は、16世紀末、今日の[[ラパス (メンドーサ州)|ラパス]]県に建てられた。初めに[[アスンシオン]]、次に[[ブエノス・アイレス]]の知事を務め、[[エルナンダリアス]]はエントレ・リオスの未開の土地への探査を行った。[[フアン・デ・ガライ]]は、サンタ・フェを建設した後、この地域の探検を行い、ラ・オトラ・バンダ (川の向こう岸) と命名した。
州都パラナは[[1852年]]から[[1862年]]まで[[アルゼンチン連合]]の首都となるが、実質的にはやはりブエノスアイレスが首都のようなものであり、都市としての発展はあまり見られなかった。
 
だが、17世紀末に、隣接するサンタ・フェ州から、植民団が今日の州都であるバハダ・デル・パラナに入植するまで、この地域は例外なく原住民の手にあり、ヨーロッパ人に入植されないままだった。またこの時に今の{{仮リンク|ノゴヤ|en|Nogoyá}}、[[ヴィクトリア]]、{{仮リンク|グアレグアイ|en|Gualeguay}}、{{仮リンク|グアレグアイチュ|en|Gualeguaychú, Entre Ríos}}、{{仮リンク|コンセプシオン・デル・ウルグアイ|en|Concepción del Uruguay}}、[[コンコルディア (アルゼンチン)|コンコルディア]]といった都市が築かれた。
 
ブラジルのポルトガル軍の侵攻の脅威から、トマス・デ・ロカモラが1783年にこの地のさらなる探検を行い、前記の都市の多くに公的地位を与えた。彼は初めてこの地域をエントレ・リオスと呼んだ。この時、ヨーロッパ人の入植地の規模は取るに足らない程度のものだったが、五月革命の最中、パラナ沿岸にある都市に住む少数の入植者が、パラグアイへ進軍するマニュエル・ベルグラーノの軍を支援した。
 
[[スペイン]]からの独立戦争に際してエントレ・リオス州は[[アルティガス]]の[[連邦同盟]]に加わった。連邦同盟に属していたエントレ・リオス州の[[フランシスコ・ラミレス]]将軍は、統領のアルティガス将軍がポルトガルに敗北し、パラグアイに亡命した後も連邦同盟の将軍としてブエノスアイレスと戦い勝利したので、[[1820年]]9月29日から一年後の7月10日に暗殺されるまでにわたり、今のエントレ・リオス州と[[コリエンテス州]]と[[ミシオネス州]]を合わせて[[エントレ・リオス共和国]]を樹立した。
 
1853年に開かれたブエノス・アイレス以外の全州を集めた会合で、パラナはアルゼンチン連合の首都に選ばれ、エントレ・リオス知事ウルキザが初代大統領になった。州都はコンセプシオン・デル・ウルグアイに移された。後にウルキザはセペダの戦いでブエノス・アイレスに勝利したが、パボンの戦いで自らの兵士の後退を許し、その結果ブエノス・アイレスのバルトローメ・ミトレが大統領に就任することを許した。彼は16年の任期の後1870年に暗殺された。彼の支持者であった{{仮リンク|リカルド・ロペス・ホルダン|en|Ricardo López Jordán}}が彼への信頼を失い、暗殺を命じたともされている。
 
ウルキザは「植民契約」でヨーロッパ人 (主にヴォルガ・ドイツ人、ロシア人 (ロシア領内のユダヤ人やポーランド人含む) 、イタリア人、スイス人、フランス人)と共に多くの耕作入植地を建て、移民を集めた。1903年の国勢調査では、この地域の425,373人の住人のうち、153,067人が移民であった。
 
== 経済 ==