「ピーター・ウィレム・ボータ」の版間の差分

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[[オレンジ自由州]]の[[ボーア人]]([[アフリカーナー]])の両親の下に生まれる。実父は[[ボーア戦争]]に軍人として参画した経歴を持つ。グレイ・ユニバーシティ・カレッジ(現在の[[フリーステイト大学]]・[[:en:University of the Free State|University of the Free State]])で[[法律]]を学ぶ。20歳の時にカレッジを中途退学し、[[ケープ州]]の[[国民党 (南アフリカ)|国民党]]組織で働き始め、1946年にはアパルトヘイト政策を提言することになる[[サウアー委員会]]の一員となる。
 
[[第二次世界大戦]]中、ボータは、他の多くのアフリカーナーの[[ナショナリズム|ナショナリスト]]と同じように[[ナチス・ドイツ]]に共感を寄せ、[[ブルームフォンテーン]]の[[極右]]団体である{{仮リンク|牛車の番人|en|Ossewabrandwag}}に入党する。しかし、[[独ソ戦]]でドイツは劣勢となるや[[キリスト教]][[保守主義]]に[[転向]]して牛車の番人を非難して脱退した<ref>[https://www.nytimes.com/2006/11/01/world/africa/01botha.html P. W. Botha, Defender of Apartheid, Is Dead at 90], ''New York Times'', 1 November 2006</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.sahistory.org.za/people/pieter-willem-botha|title=Pieter Willem Botha|last=sahoboss|date=2011-02-17|work=South African History Online|accessdate=2018-01-09}}</ref>。
 
== 政治的経歴 ==
[[1948年]]、国民党から国会議員に立候補し当選する(地盤は[[ケープ州]]東部)。この選挙で国民党を中心とする[[ダニエル・フランソワ・マラン]]四党連立政権は、アパルトヘイト政策を本格的に推進することとなる。[[1958年]]に発足した[[ヘンドリック・フルウールト]]政権では副内相に就任。
 
[[1966年]]、[[バルタザール・フォルスター]]内閣で国防相に就任する。ボータは同年に始まる{{仮リンク|南アフリカ国境紛争|en|South African Border War}}を担当し、国家予算の20%も軍事力強化に充てられたことで国産の戦闘機と攻撃ヘリコプターや機械化部隊を揃えるなど戦力を充実させた{{仮リンク|南アフリカ防衛軍|en|South African Defence Force}}は単なる[[イギリス]]の補助部隊ではなくなった<ref>Gregory, Joseph R. (1 November 2006). "P. W. Botha, Defender of Apartheid, Is Dead at 90". The New York Times</ref>。ボータは[[ソビエト連邦]]や[[キューバ]]に対抗して[[アンゴラ内戦]]と[[モザンビーク内戦]]のような地域紛争に介入する方針を決定し、{{仮リンク|サバンナ作戦 (アンゴラ)|en|Operation Savannah (Angola)|label=サバンナ作戦}}では[[アンゴラ]]に武力侵攻を行い、[[南西アフリカ警察対不正規戦部隊|クーフト]]や[[第32大隊 (南アフリカ)|第32大隊]]なども組織した<ref>Stapleton, Timothy (2013). A Military History of Africa. Santa Barbara: ABC-CLIO. pp. 251–257. ISBN 978-0313395703.</ref>。特に南アフリカと連携していた[[アンゴラ全面独立民族同盟]](UNITA)の[[ジョナス・サヴィンビ]]議長と親交を結び、サビンビから[[象牙]]の[[AK-47]]をボータは贈られた<ref>{{cite web | url=http://articles.latimes.com/1998/jan/23/news/mn-11334/2 | title=Apartheid Leader's Museum Exhibit Fails to Exert Its Old Draw | work=[[ロサンゼルス・タイムズ]] | date=1998-01-23| accessdate=2019-02-16}}</ref>。また、ボータは掛かり付け医の{{仮リンク|ウォーター・バッソン|en|Wouter Basson}}に[[生物兵器]]・[[化学兵器]]の開発を行わせ<ref>Gould, Chandré (2006) South Africa's Chemical and Biological Warfare programme 1981–1995, PhD thesis. Rhodes University.</ref>、さらに[[核開発]]計画推し進め、南アフリカを[[核保有国]]にさせることに成功した<ref>{{Cite web|url=http://nuclearweaponarchive.org/Safrica/SABuildingBombs.html|title=South Africa's Nuclear Weapons Program - Building Bombs|website=nuclearweaponarchive.org|access-date=2018-01-09}}</ref>。[[1975年]]に秘密裡の軍事協力である{{仮リンク|イスラエル・南アフリカ協定|en|Israel–South Africa Agreement}}を締結した際、当時[[イスラエル]]の防衛大臣だった[[シモン・ペレス]]に3つの核弾頭らしき武器の提供をボータは要請していたことは後に物議を醸した<ref>{{cite news |url=https://www.theguardian.com/world/2010/may/23/israel-south-africa-nuclear-documents |title=The memos and minutes that confirm Israel's nuclear stockpile |newspaper=The Guardian |first=Chris |last=McGreal|date=23 May 2010}}</ref>。
 
[[1978年]]9月、フォルスターが辞任し、議会によって後継首相に選出された。ボータは前任のフォルスターよりも政治家としては[[プラグマティスト]]であり、[[バンツースタン|ホームランド]]の自治を積極的に推し進めた。ボータの後任の国防相となった{{仮リンク|マグナス・マラン|en|Magnus Malan}}とともに[[インカタ自由党]]を支援して黒人勢力を分裂させることで[[分割統治]]も図ったとされる<ref>Berkeley, Bill (2001). The Graves are Not Yet Full.</ref>。