「恵王 (魏)」の版間の差分

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[[紀元前341年]]、[[馬陵の戦い]]において魏軍は{{仮リンク|田忌|zh|田忌}}・[[孫ピン|孫臏]]の率いる斉軍に敗れ、嫡子の上将軍の{{仮リンク|魏申|zh|太子申|label=太子申}}が捕えられるという惨敗を喫する<ref>『[[戦国策]]』「巻23魏2斉魏戦于馬陵」によると、[[ホウ涓|龐涓]]は斉軍に捕虜にされ、太子申は戦死したと記されている。「龐涓戦于馬陵 魏師大敗 殺太子申 虜龐涓」(原文)。また、『孟子』によると魏の恵王が晩年に孟子と会見した時に「私は先年に、可愛い息子を陣没で失ってしまった」と嘆いていたことが伝えられている(後述・上記の孟子との対話より)。</ref>。
 
また、それを好機と捉えた秦の商鞅がその翌年の[[紀元前340年]]にすかさず西から侵攻し、商鞅と親交があった総大将の[[魏ゴウ|公子卬]](恵王の異母弟?)を欺き、これを捕虜として大勝したために、魏は都を[[安邑]]から、東方の[[大梁]](現在の[[開封]])に遷さなければならないほどであった。これ以降、魏は梁とも呼ばれるようになる。このように失意の中にいた恵王は溺愛した太子申の同母弟の[[{{仮リンク|魏赫|zh|公子赫|label=公子赫]]}}を世子に定めたという。同時に恵王は「あの時に私が公叔痤の言葉を聴いて、公孫鞅とやらを処刑すればこんなことにならなんだのに…」と洩らして、商鞅を殺さなかったことを大いに悔いたという。
 
度重なる敗戦により、魏は衰え、韓と共に斉に服属することとなり、[[文侯 (魏)|文侯]]以来守られてきた覇権を失う結果となった。恵王は[[紀元前319年]]に老衰のために82歳で逝去した。末子の太子嗣が即位した([[襄王 (魏)|襄王]])。