「ジョージ・アームストロング・カスター」の版間の差分

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===ブラック・ヒルズへの侵入===
[[image:Custer1.jpg|thumb|200px|left|[[ハイイログマ|灰色熊]]を仕留めたカスター。左はカスターの片腕、{{仮リンク|アリカラ族|en|Arikara}}の{{仮リンク|[[ブラッディ・ナイフ|en|Bloody Knife}}]](1876年)]]
1873年、カスターはダコタの鉄道職員を防衛する戦いに赴き、[[トング川の戦い]]でスー族と交戦した。これが全面戦争にならなかったのは、不況で鉄道建設資金が枯渇したからだった。合衆国は1868年に締結した「[[サウスダコタ州#ララミー砦の条約と、「偉大なるスーの国」|ララミー砦の条約]]」に違反し、「ブラックヒルズ」に鉄道建設の前線基地を建設する計画を立てた。
 
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[[1876年]][[6月25日]]、カスターは自ら700名の部隊を率いてリトルビッグホーン川(インディアン側の呼び名はグリージー・グラス川)をさかのぼって、対白人政策と宗教行事「サン・ダンス」のために集結していた、ダコタ族と[[ラコタ]]族の[[スー族]]、[[シャイアン族]]、[[アラパホ]]族の[[インディアン]]同盟部族からなる総勢約1500名の[[ティピー]]野営会議場が存在するとの報告を、インディアン斥候から受けた。カスターは騎兵隊を三個分隊に分けて攻撃する事を計画、[[マーカス・リノ]]隊、[[フレデリック・ベンティーン]]隊、そしてカスターの本隊に分割した。ベンティーン隊は敵の退却を阻止する為に南と西に向かい、リノ隊が集会所の南側から攻撃を仕掛ける間にカスター隊が迂回して挟撃するという作戦だった{{sfn|Welch|2007|page=149}}{{sfn|Ambrose|1996|page=437}}。
 
一斉攻撃をはやるカスターに対し、副官マーカス・リノは「慎重にいきましょう」と助言し、[[ジョン・ギボン (将軍)|ジョン・ギボン]]大佐は「カスター君、あんまり欲張るもんじゃないよ、インディアンはなにしろたくさんいるからね」と忠告した。カスターが最も信頼していた「[[w:U.S. Army Indian Scouts|インディアン斥候]]{{Languageicon|en}}」の{{仮リンク|[[ブラッディ・ナイフ|en|Bloody Knife}}]]({{仮リンク|アリカラ族|en|Arikara}})も、「敵方としてスー族の数があまりにも多すぎる」と何度も何度も忠告していた。しかし勝ちを焦ったカスターはこれらの意見を無視し、隊を3つに分散させての迂回攻撃を開始した。
 
[[リトルビッグホーンの戦い]]が始まると各部隊は予定通りの進軍を開始したが{{sfn|Marshall|2007|page=2}}、リノ隊は直ぐにシャイアンの戦士たちに取り囲まれて身動きが取れなくなった。更にダコタ騎兵の突撃で無防備な左側面を強襲されて完全に敗走に追い込まれた{{sfn|Goodrich|1997|page=242}}。リノ隊の兵士は命からがら近くの森林地帯に逃げ込んだが、そこも直ぐにインディアンの追撃を受けて更に逃げ延びなければならなくなった{{sfn|Marshall|2007|page=4}}{{sfn|Ambrose|1996|page=439}}。伝統的な騎兵挟撃「槌と金床」の[[金床]]が崩れ{{sfn|Smalley|2005}}、当初の作戦は瓦解した事が明らかだった。しかしカスターは単独で攻撃を継続するという勇気を通り越して無謀に近い攻撃を遂行、本陣の大軍に取り囲まれた。乱戦の中{{sfn|Michno|1997|pages=205–206}}で指揮を執っていたカスターは銃弾に貫かれ戦死、他の隊員も軒並み殺害され本隊は全滅した。カスターは死の間際に'''「万歳!野郎ども、奴らを片づけて本隊に戻ろうぜ!」'''{{sfn|Hunt|1947}}と叫んだと言われている。両軍戦力について、インディアンの数については諸説あるが1800人を超えたという点では一致しており{{sfn|Michno|1997|pages=10–20}}、対するカスター隊は208名だった。カスターを殺した戦士が誰なのかはインディアンの間でも論争があり、複数の戦士が名乗りを上げている。