「ロバート・ボイル」の版間の差分

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== 生い立ち ==
[[ファイル:Young Robert Boyle on monument St. Patricks.jpg|thumb|left|150px|両親が祀られている[[聖パトリック大聖堂 (ダブリン)|聖パトリック大聖堂]]にあるロバート・ボイルを表していると見られる少年像]]
1627年、アイルランド[[ウォーターフォード州]]リズモアに生まれる。父は初代[[コーク伯]][[リチャード・ボイル (初代コーク伯爵)|リチャード・ボイル]]で、そとキャサリン・フェントン夫妻の7番目の息子、14番目の子である。第2代コーク伯爵兼初代[[バーリントン伯爵]][[リチャード・ボイル (初代リントン伯爵)|リチャード・ボイル]]は1588年にア、初代オーラリー伯爵[[ロジャー・ボイル (初代オーンドに赴き、復帰地副管理官となり、リー伯爵)|ジャトが生まれたころに・ボイル]]大地主になっていた
 
父は1588年にアイルランドに赴き、復帰地副管理官となり、ロバートが生まれたころには大地主になっていた。兄たちと同様、幼いころに現地の一家に里子に出された<ref name=McCartneyWhitaker>{{cite|title=Physicists of Ireland: Passion and Precision|first1=Mark|last1=McCartney|first2=Andrew|last2=Whitaker|publisher=Insitute of Physics Publishing|year=2003|location=London}}</ref>。その結果ボイル家の子らは4年ほどで十分に[[アイルランド語]]を理解し、通訳ができるようになった<ref name="canny">{{cite|first=Nicholas|last=Canny|title=The Upstart Earl: a study of the social and mental world of Richard Boyle|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|year=1982|page=127}}</ref>。ロバートはラテン語、ギリシャ語、フランス語を学び、8歳のときに母が亡くなると、イングランドの[[イートン・カレッジ]]に送られた。当時、父の友人 [[:en:Henry Wotton|Henry Wotton]] が校長を務めていた。
 
イートン・カレッジでは、父が家庭教師 Robert Carew を雇い、息子たちの教育を任せた。しかし、ロバートはあまり家庭教師の言うことを聞かなかった<ref name="canny"/>。イートンで3年間を過ごした後、ロバートはフランス人家庭教師と共に海外旅行に出た。1641年には[[イタリア]]を訪れ、その年の冬は[[フィレンツェ]]で過ごし、[[ガリレオ・ガリレイ]]に師事した(ガリレオは1642年没)。