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[[1934年]](昭和9年)に一高を卒業後、[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]入学。「[[講座派]]」の思想に影響を受ける。[[1937年]](昭和12年)卒業。在学中(1936年)に懸賞論文のために執筆した「政治学に於ける国家の概念」<ref>『戦中と戦後の間』所収、みすず書房 </ref>が認められて[[助手 (教育)|助手]]となる。本来はヨーロッパ政治思想史を研究したかったが、日本政治思想史の研究を開始した。1940年(昭和15年)、「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」を『国家学会雑誌』(54巻2-5号)に発表。6月、東京帝国大学法学部助教授となる。1941年、「近世日本思想史における「自然」と「作為」-制度観の対立としての」を『国家学会雑誌』に発表。
 
[[1944年]](昭和19年)3月、小山ゆか里と結婚。7月、「国民主義理論の形成」を『国家学会雑誌』に発表(後に「国民主義の「前期的」形成と改題)。
 
同年7月、大学[[准教授|助教授]]でありながら、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[二等兵]]として教育召集を受けた。大卒者は召集後でも[[幹部候補生 (日本軍)|幹部候補生]]に志願すれば[[将校]]になる道が開かれていたが、「[[軍隊]]に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま[[朝鮮半島]]の[[平壌]]へ送られた。9月、[[脚気]]のため[[除隊]]決定。11月、応召より帰還。