「玉山 (台湾)」の版間の差分

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[[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]には、[[明治天皇]]により[[富士山]]よりも高い「新しい日本最高峰」の意味で'''新高山'''と名づけられた。しかし皮肉にも、台湾で最も遅くまで日本に抵抗したのは、新高山の周囲に住む[[ブヌン族]]の「郡蕃」と呼ばれる一群であり、新高山南面の荖濃渓上流部は[[1933年]]になってようやく日本の実質統治下に入ったが、[[1932年]]には南方の大関山駐在所が襲撃され、日本人警察官3名が殺害された(大関山事件)。
 
[[1934年]]には、東方のラクラク渓上流部で、日本人警察官が殺害された(玉里事件)。また[[1941年]]には、遥か南方の北糸渓畔の駐在所が襲われ、日本人警察官ら3名が殺害された「内本鹿事件」が発生するなど、新高山周辺では終戦に至るまで、日本人側からは「蕃害」と呼ばれたブヌン族による抵抗運動が多発した。
 
富士山の標高3,776mよりも高いことから、[[大日本帝国]]の台湾領有期には[[日本一の一覧|日本一標高の高い山]]として知られ、大日本帝国の学校でも「日本一の山」として教えられていた。また[[1937年]]には「[[新高阿里山国立公園]]」として、大日本帝国の[[国立公園]]に指定されていた。