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[[15世紀]]以降、町は「スターリツァ」(「以前の川床」の意)の名で呼ばれるようになった。しかしスターリツァには「老婆」の意味もあるため、スターリツァの紋章には誤って老いた尼僧の絵があしらわれることになった。かつて強国だった[[トヴェリ]]公国の支配下にあったスターリツァは、[[1485年]]には公国の他の部分とともに[[モスクワ大公国]]に併合された。
 
[[16世紀]]初頭、モスクワ大公[[イヴァン3世]]の末子[[アンドレイ・イヴァノヴィチ (スターリツァ公)|アンドレイ]]がスターリツァ公になり、さらにその息子[[ウラジーミル・アンドレエヴィチ (スターリツァ公)|ウラジーミル]]に受け継がれた。彼らの下でスターリツァの街は黄金時代を迎える。[[イヴァン4世]](雷帝)が重病に見舞われた時、[[ボヤーレ]]たちはその息子でなくウラジーミルを後継者にしようとした。この事件以後、イヴァン4世はスターリツァ公が自分に対する陰謀を巡らせていると思い込み、ウラジーミルとその息子達は毒薬を飲まされ、ウラジーミルの娘[[マリヤ・スターリツカヤ]]を除き一家は全滅した。ウラジーミルの時代の繁栄ぶりは、[[生神女就寝大聖堂|生神女就寝(ウスペンスキー)修道院]]にも見ることが出来る。
 
[[1775年]]には郡の中心地となった。[[第二次世界大戦]]では、[[1941年]]10月から[[1942年]]1月までの間ドイツ軍に占領されている。