「大蓮寺 (京都市)」の版間の差分

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|画像 = Dairenji.jpg
|画像説明 = 本堂
|所在地 = [[京都市]][[左京区]][[東山通|東山]][[二条通|二条]]西入1筋目下ル[[正往寺町]]457
|位置 = {{coord|35|0|45.3|N|135|46|35.6|E|region:JP-26|display=title}}
|山号 = [[引接山]]<br />(引擑山)
|院号 = [[極樂院]]<br />([[極楽院]])
|宗旨 = [[浄土教]]
|宗派 = [[浄土宗]]
|本尊 = [[阿弥陀如来]]
|創建年 = [[慶長]]5年([[1600年]])
|開基 = [[専蓮社深誉上人]]
|正式名 = 引接山極樂院大<span lang=ko>蓮</span>寺
|別称 = [[安産]]祈願の寺、安産阿彌陀如來
|札所等 = [[洛陽三十三所観音霊場]]第8番
|文化財 =
|地図 =
}}
'''大蓮寺'''(だいれんじ)は、[[京都市]][[左京区]]にある[[浄土宗]]の寺院。[[山号]]は引接山。[[院号]]は極楽院。[[本尊]]は[[阿弥陀如来]]。開基は専蓮社深誉上人。[[後光明天皇]]が当寺に夫人の安産祈願を命じたことから、通称「安産祈願の寺」として知られる。本尊[[阿弥陀如来]]の他に札所本尊として[[十一面観音]]を安置し、[[洛陽三十三観音霊場]]第8番札所となっている。
 
== 歴史 ==
'''大蓮寺'''(だいれんじ)は、[[京都市]][[左京区]]にある[[浄土宗]]の寺院。山号は引接山。院号は極楽院。[[本尊]]は[[阿弥陀如来]]。開基は専蓮社深誉上人。[[後光明天皇]]が当寺に夫人の安産祈願を命じたことから、通称「安産祈願の寺」として知られる。本尊[[阿弥陀如来]]の他に札所本尊として[[十一面観音]]を安置し、[[洛陽三十三観音霊場]]第8番札所となっている。
この寺は、[[慶長]]5年([[1600年]])深誉が現在の京都市[[下京区]]に創建したのに始まる。伝承によると、慶長5年のある日、深誉は[[伏見]]の地で金色に輝く阿弥陀如来を見出し、誰も供養する者がないことをもったいなく思い、持ち帰って五条に仏堂を建て安置した、これが大蓮寺であるという。しかし、後になってこの阿弥陀如来は[[真如堂]]([[真正極楽寺]])の阿弥陀如来であることがわかり、真如堂に訴えられて返還することになった。残念に思った深誉が二十一日間の[[念仏]]を修したところ、最後の夜に旅の僧があらわれ共に念仏するが、次の朝には旅の僧の姿はなく、その代わりに本尊の阿弥陀如来が分かれて二体になっていた。一体は真如堂に返還し、もう一体はこれまで通り、大蓮寺の本尊として祀った。
 
==歴史==
この寺は、[[慶長]]5年([[1600年]])深誉が現在の京都市[[下京区]]に創建したのに始まる。伝承によると、慶長5年のある日、深誉は[[伏見]]の地で金色に輝く阿弥陀如来を見出し、誰も供養する者がないことをもったいなく思い、持ち帰って五条に仏堂を建て安置した、これが大蓮寺であるという。しかし、後になってこの阿弥陀如来は真如堂([[真正極楽寺]])の阿弥陀如来であることがわかり、真如堂に訴えられて返還することになった。残念に思った深誉が二十一日間の[[念仏]]を修したところ、最後の夜に旅の僧があらわれ共に念仏するが、次の朝には旅の僧の姿はなく、その代わりに本尊の阿弥陀如来が分かれて二体になっていた。一体は真如堂に返還し、もう一体はこれまで通り、大蓮寺の本尊として祀った。
 
その後、[[後光明天皇]]の夫人である[[典侍]][[庭田秀子]]が難産に苦しんでいたため、大蓮寺に安産祈願の[[勅命]]が下った。祈願の甲斐あって第一皇女の[[孝子内親王]]は無事出生。[[後光明天皇|後光明天皇崩御]]の後は[[有栖川宮|有栖川職仁親王]]がその信仰を受け継ぐ。その縁で寺紋は有栖川宮紋となっている。
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[[File:大蓮寺.jpg|200px|right]]
 
== 文化財 ==
* 阿弥陀如来立像
: 真如堂(真正極楽寺)の阿弥陀如来の分身とされ、[[円仁]](慈覚大師)作の伝承をもつ。女人救済、安産に利益のある阿弥陀像として信仰されている。
=== 感神院(祇園社)の仏像 ===
* 十一面観音立像
:[[祇園社]](現・[[八坂神社]])観音堂の旧仏。カヤ材の一木造りで、10世紀の作。[[洛陽三十三所観音霊場]]第8番札所。
* 薬師如来立像(重要文化財)
:かつて[[祇園社]]の[[本地仏]]であったもので、[[祇園社]]の境内にあった観慶寺薬師堂に安置されていたが、明治の[[廃仏毀釈]]・神仏分離で観慶寺が廃絶した後、大蓮寺に移された。[[定朝]]様の温和な作風の像で[[平安時代]]後期の作風を示し、祇園社が[[延久]]2年([[1070年]])の火災で焼失した直後に造立されたものと推定される。作者は定朝の弟子で[[院派]]・[[慶派]]の祖である[[覚助 (仏師)|覚助]]と推定する説が有力である。像高192cm。
* [[夜叉]]神[[仏の一覧#明王部|明王]]立像
: [[祇園社]]の旧仏。洛陽十二社中の一とされ、厄除の利益があるという。
 
== 札所 ==
; [[洛陽三十三所観音霊場]]
: 7 [[長楽寺 (京都市)|長楽寺]] -<small></small>- '''8 大蓮寺''' -<small></small>- 9 [[青龍寺 (京都市東山区)|青龍寺]]
 
==所在地・アクセス==
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*『洛陽三十三所観音霊場』公式ガイドブック、2005
 
== 関連項目 ==
* [[走り坊主]]
* [[洛陽三十三所観音霊場]]
 
== 外部リンク ==
* [http://www.anzan-no-tera.jp/index.html 公式サイト]
* [http://www.rakuyo33.jp 洛陽三十三所観音霊場]
 
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[[Category:祇園信仰]]
[[Category:観音像]]
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[[Category:洛陽三十三所観音霊場]]