「松前城」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
42行目:
 
=== 築城 ===
築城計画の際、現在地の福山ではなく、地形的に要害となりうる[[函館市|箱館]]の臥牛山([[函館山]])に築城するべきという意見もあったが、城下の商人が城が移転することで経済的打撃を受けて松前港は寂れてしまうるこを危ぶんだ城下商人による反対意見、さらに予算があまりなの不足も伴ということもあって、当時の松前氏の居館であった福山館を拡張する方法で落ち着き、三の丸から本丸までを[[津軽海峡]]に向けて雛壇式に築城した。<!-- (臥牛山築城案の方が正しかったことは、後に[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]が臥牛山山頂部に函館山要塞を築いたことで証明された。)-->
 
[[長沼流]]兵学者・[[市川一学]]の縄張りにより旧福山館の拡張・改築を行い、この時に初めて3重の[[天守]]を上げ、[[1854年]]([[安政]]元年)に竣工し、この頃から'''松前城'''と呼ばれるようになったと伝わる。海側からの艦砲射撃に備えて砲台を備え、かつ城壁の中に鉄板を仕込んでおり、城の本丸方の虎口から本丸までの通路は複雑かつ側面から鉄砲などで射撃しやすい構造とした。天守や櫓、門の屋根には、寒さで凍み割れやすい粘土瓦のかわりに銅板を葺いた。