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'''真藤 恒'''(しんとう ひさし、[[1910年]][[7月2日]] - [[2003年]][[1月26日]])は、日本の[[実業家]]。[[福岡県]][[久留米市]]出身。石川島播磨重工業
== 来歴・人物 ==
[[1934年]]春、[[九州帝国大学工学部]]造船学科を卒業後、播磨造船所(後の石川島播磨重工業)に入社。戦後はアメリカの「海運王」、[[:en:Daniel_K._Ludwig|ダニエル・ラドウィック]]と手を組み、当時としては画期的な手法で数々の船舶を建造し、専門の船ではそれまでの常識を破ったズングリムックリ型の[[タンカー]]を考え出したり、従来の貨物船が一隻ごとにオーナーと仕様を決めるオーダーメイドであったのを、あらかじめ造船所が主要スペックを決めてカタログ販売する[[標準船]]を世に送り出した。造船では二流企業でしかなかった石川島播磨重工を業界トップに押し上げ、日本の造船業の発展に尽力。[[1972年]][[11月6日]]から社長を務め、合理化を推進したが、造船不況の中で、大規模な人員削減を実施した。建造量で[[三菱重工業]]を追い抜くという快挙を達成した直後の出来事だった。その責任を取って[[1979年]][[4月2日]]社長を退任した。会長の座を断って、相談役に就いた。
=== 電電公社民営化を推進 ===
[[1981年]]に同社出身の[[土光敏夫]][[経団連]]名誉会長(当時)に請われ、旧日本電信電話公社総裁に就任。同公社の民営化を積極的に推進し、[[1985年]]4月の日本電信電話株式会社(NTT)発足に伴い初代社長に就任した。
しかし[[リクルート事件]]で、同社事業への支援の謝礼として値上がり確実なリクルートコスモス(現
真藤は当時78歳であり、高齢での逮捕は当時としては異例であったことが各メディアで伝えられたが、拘置所に収監された時の思い出として、初めて布団の上げ下ろしの仕方を看守から教えてもらったと語る。
[[1990年]][[10月9日]]、東京地裁において懲役2年、執行猶予3年、追徴金2270万円の有罪判決を言い渡され、その後、確定している。そしてその罪を一切弁明せず、公職や経営の一線から身を引いていた。
最後にメディアに登場したのは[[1995年]]春、[[日経BP社|日経BP]]のインタビュー記事である。「民営化は万能薬ではない」とし、「大事なのは競争状態を作ることだ」、「事業の独占を放置したまま民営化すると、逆に民業圧迫になる」と語っている。
[[2003年]][[1月26日
== 著作 ==
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== 参考文献 ==
* 前間孝則『戦艦大和の遺産』上、下([[講談社]]+α文庫、2005年)
: 上 ISBN 4-06-256981-7 下 ISBN 4-06-256982-5
{{先代次代|[[石川島播磨重工業]]社長|第4代
{{先代次代|[[日本電信電話公社]]総裁|第5代
{{先代次代|[[日本電信電話]]株式会社社長|初代
{{DEFAULTSORT:しんとう ひさし}}
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