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[[縄文時代]]の遺跡としては、糸島半島東部の大原D遺跡(西区)で縄文時代早期の[[竪穴住居]]が見つかっているほか、柏原遺跡(南区)からは草創期から後期の土器や集石炉が見つかっている。中期の遺跡として、野多目拈渡遺跡(南区)や有田遺跡(早良区)から[[イチイガシ]]などの[[ドングリ]]類の[[貯蔵穴]]がまとまって見つかっている。後期の遺跡では、元岡瓜尾貝塚、桑原飛櫛貝塚(いずれも西区)などの[[貝塚]]があり、四箇遺跡(早良区)からは多数の縄文土器や石器が出土している。'''縄文時代の[[福岡平野]]は海底であった'''ことが[[真鍋大覚]]の調査で判明しており、「肥前島」の端にあたる前記の遺跡ぐらいで、旧石器時代と同様に少ない。
 
そのころの遺跡として市内の[[板付遺跡]](博多区)がある。また[[志賀島]](東区)で発見された[[金印]]「[[倭奴国王印]]」は、1世紀頃の大陸文化との交流を示す貴重な史料である。[[後漢書]]東夷伝にある「建武中元二年(西暦57年) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」の記事にある印綬は、この金印のことだと考えられている。また[[3世紀]]頃の様子を記述したいわゆる[[魏志倭人伝]]の記載から、「[[奴国]]」は博多付近(後の那の津)との説が有力である。{{要出典範囲|このような記録に残っているという意味では、日本で最も古い歴史を持つ都市と言える。|date=2010年11月}}
 
ちなみにこの「魏に朝貢していた」という記録が金印の発見時にひとつの騒動を起こす。天明4年(1784年)に百姓甚兵衛により金印が発見されたとき、主として学者たちが「魏に朝貢していたとはけしからん。このようなものは鋳つぶしてしまうべきである」と強硬に主張し、一時、福岡藩の藩論もそちらに傾くのである。それを、藩校・甘棠館の学長をしていた儒学者[[亀井南冥]]が身体を張って阻止したという。