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新しいページ: 「'''柳本 長治'''(やなぎもと ながはる、寛正4年(1463年)-永正17年2月17日 (旧暦)1520年3月6日)…」
 
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高国から[[山城国]]・[[丹波国]]にある荘園の代官に任じられており、永正6年([[1509年]])には[[一条家]]の[[地子]]を徴収する権利を巡って、[[大内氏]]家臣[[三隅氏]]と喧嘩騒ぎ<ref>『実隆公記』『後柏原院御記』永正6年正月11日条</ref>を起こしている<ref>馬部、2018年、P115.</ref>。
 
永正8年(1511([[1511]])の[[船岡山合戦]]・[[芦屋河原合戦]]では高国方の有力な武将として参陣しているが、永正17年([[1520年]])に細川澄元の反攻で[[下田中城]]・[[越水城]]を落とされた高国軍が京都に敗走する途中で、山城の[[西岡 (山城国)|西岡]]の[[一揆]]による[[落武者狩り]]にあって、嫡男の弾正忠某<ref>実名は不詳。『不問物語』は長治のことと混同している。また、柳本賢治も弾正忠を名乗っているが、『不問物語』文中の記述より足利義稙の将軍在任中に完成しているのが判明するため、大永8年(1528年)頃に弾正忠を名乗り始めた賢治は該当しない(馬部、2018年、P115-116・152.)。</ref>と共に討たれた<ref>『[[大日本史料]]』永正17年2月17日条(出典は『拾芥記』・『壬生于恒記』・『聾盲記』)</ref><ref>馬部、2018年、P115-116・151-152.</ref>。
 
その後、[[等持院の戦い]]で戦局の巻き返しに成功した細川高国は既に家臣の岩崎氏を継がせていた[[波多野元清]]の弟を急遽、長治と嫡男を同時に失った柳本氏の後継とした。後の[[柳本賢治]]である<ref>馬部、2018年、P118-119.</ref>。