「アジア・アフリカ会議」の版間の差分

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== 日本からの出席 ==
日本は[[高碕達之助]]経済審議庁長官を代表として[[加瀬俊一 (1925年入省)|加瀬俊一]]外務相参与(後に国連大使となる)など外務大臣代理で出席した十数名が参加したが、他国は中華人民共和国の周恩来、インドのネール、エジプトのナセル等いずれも元首、首相級が出席し、政府レベルの国際会議となった。
招待状をもらった日本では政府内では見送り論も出るほど不安を抱えながらの参加であった。
その参加の模様を、加瀬俊一が1994年7月京都外国語大学で講演で以下のように述べた。<ref>[https://ironna.jp/article/847]戦後70年 落ち着いて歴史を語れる国に</ref>
 
「(各国代表からは)『日本が、大東亜宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした、その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然として、イギリスの植民地、オランダの植民地、フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある』ということだった。我々が今日こうやって独立しました、といって『アジア・アフリカ民族独立を祝う会』というのがA・A会議の本来の目的だった。こんな会議が開けるのも、日本のお陰ですと、『やぁー、こっちへ来て下さい』、『いやぁ、今度は私のところへ来て下さい』といってね、大変なもて方だった。『やっぱり来てよかったなぁ』とそう思いました。その翌年、日本は晴れて国連に加盟して、私は初代国連大使になりました。アジア・アフリカ(A・A)グループが終始熱心に日本の加盟を支持した事実を強調したい。A・A諸国から大きな信頼と期待を寄せられて、戦後我が国は今日の繁栄を築いて来たのです」<ref>[https://ironna.jp/article/847]『シリーズ 日本人の誇り1 日本人はとても素敵だった』(揚素秋著、桜の花出版、2003年刊)</ref>
 
== バンドン会議50周年を記念する首脳会議 ==