「大塩平八郎」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎容貌: 誤字修正
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
28行目:
'''大塩 平八郎'''(おおしお へいはちろう)は、[[江戸時代]]後期の[[儒学者]]、[[大坂町奉行]]組[[与力]]。[[大塩平八郎の乱]]を起こした。
 
[[仮名 (通称)|通称]]は平八郎、[[諱]]は正高、のち後素(こうそ)。[[字]]は子起。号は中斎。[[家紋]]は揚羽。大塩家は[[今川氏]]の末流で、代々大坂東町奉行組与力であを務めており、平八郎は初代の[[大塩成一|大塩六兵衛成一]]から数えて8代目にあたる。[[大阪|大坂]][[天満]]生まれ。かつては平八郎が養子で[[阿波国]]の生まれとする説も存在したが、乱に関する幕府評定所の吟味書の記述などから、養子である可能性は否定されている。平八郎の実の祖父・政之丞が阿波国[[脇町]]の出身で、与力大塩に養子に入ったことから、この祖父と混同されたと考えられる。
 
== 生涯 ==
=== 大坂町奉行組与力 ===
66 ⟶ 67行目:
 
=== 容貌 ===
大塩の肖像画としては菊池容斎が描いたものが非常に有名で教科書などにも採用されている。しかし、菊池は大塩に面識がなくこの絵もいつ頃描かれたものか詳細は不詳である。
 
大塩が逃亡した後、町奉行所が全国に手配書を配っているが、そこに大塩の容貌が詳細に書かれている。
:「年齢四十五六斗 顔細長キ色白キ方 眉毛細ク薄キ方 額開キ月代厚キ方 眼細キ有之鼻常躰 背格好常躰中肉 其節之着類鍬形付甲着用黒キ陣羽織其余着用」
 
「年齢四十五六斗 顔細長キ色白キ方 眉毛細ク薄キ方 額開キ月代厚キ方 眼細キ有之鼻常躰 背格好常躰中肉 其節之着類鍬形付甲着用黒キ陣羽織其余着用」
 
一説によれば217cmの長身だったとされるが、手配書には上記のように「背格好常躰中肉」(中肉中背)と記されている。
 
77 ⟶ 76行目:
大塩父子の終焉地近傍の[[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]靱本町1丁目18番12号([[天理教]]飾大分教会の敷地内)に、追悼碑がある。碑文にもある通り、終焉地である油掛町の美吉屋の跡は、この碑がある道路の一本北の道に北面していた。
 
平八郎と格之助の墓は大阪市[[北区 (大阪市)|北区]]の[[成正寺 (大阪市)|成正寺]]にある。[[大阪大空襲|戦災]]で破損した墓を[[1957年]]に復元したものであり、まだ新しい
<gallery>
画像:大塩平八郎終焉の地碑.JPG|大塩終焉地の碑([[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]])
293 ⟶ 292行目:
**乱当時は[[勘定吟味役]]。矢部定謙や岡本花亭、江川英龍、[[羽倉簡堂]]、藤田東湖らと親しかった。乱発生の第一報が江戸に届いた際は林述斎から伝え聞き「大塩は陽明学派の儒者だから乱など起こすはずがない。たとえ実際に起こしたとしても、狂人の所業だから大したことはない」と感想を述べた。いよいよ乱の発生が確かで、跡部良弼は殺されたとの噂が江戸に流れてくると、跡部の実兄の老中水野忠邦に対して「大塩は浪人であり、白昼に自宅を焼いて蜂起した以上は大したことはできないはずだ」と言って水野を安心させた。この経緯は川路の『遊芸園随筆』に記されている。なお川路は、[[仙石騒動]]で寺社奉行吟味物調役として実務を担当したことが出世のきっかけとなり、担当老中であった水野や担当寺社奉行であった[[脇坂安董]]とは懇意であった。その一方で大久保忠真とも懇意で、病床にある大久保に大塩の乱の報が伝わって心労を増やさないようにとの配慮から、大久保の家臣たちに口留めの働きかけもしている。川路のこの働きかけは間に合わず、既に大久保の耳に入っていた。
-->
 
== 関連書籍 ==
=== 大塩の著作(明治以降出版) ===