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'''細川 持隆'''(ほそかわ もちたか)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[細川之持]]の子。[[阿波国]][[守護]]。[[細川氏#阿波守護家(讃州家)|細川阿波守護家]]9代当主。34代[[室町幕府]][[管領]]の[[細川晴元]]は従弟にあたる。
 
== 生涯 ==
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勝瑞事件の原因として三好長慶に対抗するため[[足利義栄]](義維の子)を擁して上洛を謀ったが実休に漏れたとする説、阿波国内での実休の力の増大に脅威を感じて暗殺を謀ったのが実休に漏れたとする説、細川晴元の再起を持隆が支援しているのが実休に漏れたとする説があるが、晴元と長慶の戦いの最中に積極的な行動を起こさずに三好氏に好意的とも言える立場を採った持隆が突然長慶・実休と対立するに至った背景には不明な点が多い<ref>若松、2013年、P441-446</ref>。
 
== 異説 ==
近年、[[馬部隆弘]]が若松和三郎による細川之持の天文年間病死説を否定する過程で、『細川高国晴元争闘記』という史料に持隆が享禄4年(1531年)当時に15歳か16歳であるという記事<ref>「六郎君(細川晴元)高弟讃州府君、齢僅十五六、眉宇秀発、友愛之情、汎眉睫間、擁万騎、救兄於危難間」</ref>を見出し、持隆が永正13年([[1516年]])または同17年([[1517年]])生まれである可能性があり、その場合、持隆は之持の子ではないことになると指摘した。同時に『[[尊卑分脈]]』にも之持の子の記述がなく、之持と持隆を父子とするのは後世の系譜類のみであるとした。馬部は持隆は澄元の子で晴元の実弟が正しく、船岡山合戦後に澄元が暫く高国との戦いを控えた原因の一つとして之持の後継者問題が決まらず阿波から離れられなかったことにあると論じている<ref>馬部、2018年、P215-239.</ref>。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*若松和三郎『阿波細川氏の研究』(2013年、戎光祥出版(原著は2000年私家版)) ISBN 978-4-86403-087-8
*馬部隆弘「細川澄元陣営の再編と上洛戦」(初出:『史敏』通巻14号(2016年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6)
 
== 関連項目 ==