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== 異説 ==
近年、[[馬部隆弘]]が若松和三郎による細川之持の天文年間病死説を否定する過程で、『細川両家記』享禄5年3月3日条に讃州(持隆)を晴元の御舎弟と記していること、『細川高国晴元争闘記』という史料に持隆が享禄4年(1531年)当時に15歳か16歳であるという記事<ref>「六郎君(細川晴元)高弟讃州府君、齢僅十五六、眉宇秀発、友愛之情、汎眉睫間、擁万騎、救兄於危難間」</ref>を見出し、持隆が永正13年([[1516年]])または同17年([[1517年]])生まれである可能性があり、その場合、持隆は之持の子ではないことになると指摘した。同時に『[[尊卑分脈]]』にも之持の子の記述がなく、之持と持隆を父子とするのは後世の系譜類のみであるとした。馬部は持隆は澄元の子で晴元の実弟が正しく、船岡山合戦後に澄元が暫く高国との戦いを控えた原因の一つとして之持の後継者問題が決まらず阿波から離れられなかったことにあると論じている<ref>馬部、2018年、P215-239.</ref>。
 
== 脚注 ==