削除された内容 追加された内容
画像の差し替えなど
en:Assassination of Archduke Franz Ferdinand (08:19, 28 February 2019‎ UTC) の抄訳により加筆
34行目:
'''サラエボ事件'''(サラエボじけん、'''サラエヴォ事件'''、'''サライェヴォ事件''')は、[[1914年]][[6月28日]]に[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[推定相続人|皇位継承者]]である[[オーストリア大公]][[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]とその妻[[ゾフィー・ホテク]]が、[[サラエボ]](当時オーストリア領、現[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]領)を訪問中、[[ボスニア]]出身の{{仮リンク|ボスニア系セルビア人|bs|Bosanski Srbi}}の青年[[ガヴリロ・プリンツィプ]]によって[[暗殺]]された事件。プリンツィプは、セルビア系秘密結社「[[黒手組]]」の一員{{仮リンク|ダニロ・イリッチ|en|Danilo Ilić}}によって組織された6人の暗殺者(5人のボスニア系セルビア人と1人の[[ボシュニャク人]])のうちの1人だった。暗殺者らの動機は、のちに{{仮リンク|青年ボスニア|en|Young Bosnia}}として知られるようになった政治運動と一致していた。この事件を契機として[[オーストリア=ハンガリー帝国]]は[[セルビア王国_(近代)|セルビア王国]]に[[オーストリア最後通牒|最後通牒]]を突きつけ、[[第一次世界大戦]]の勃発につながった。
 
暗殺の実行犯と、暗殺を支援した地下ネットワークのメンバー、および暗殺を計画した[[セルビア軍]]関係者は逮捕されて裁判にかけられ、有罪判決を受けたのちに処罰された。 ボスニアで逮捕された者たちは1914年10月にサラエボで裁判にかけられた。その他の者たちは、1917年に暗殺とは無関係な罪状でセルビア当局によって起訴され、フランス支配下の[[テッサロニキ]]で裁判にかけられた。テッサロニキ裁判では3人のセルビア軍高官が処刑された。その中の1人であり、事件当時セルビア軍諜報部長だった[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ]]は、自らがフランツ・フェルディナントの暗殺を指したことを裁判中に告白した。
==背景==
[[File:Zofia_von_Hohenbergzmężem.JPG|thumb|200px|[[オーストリア大公]][[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]とその妻[[ゾフィー・ホテク]]]]
43行目:
新しい王朝は以前よりもセルビア民族主義的かつ[[親露]]的であり、オーストリア=ハンガリー帝国との関係は悪化した{{sfn|MacKenzie|1995|pp=24–33}}。その後の10年間、セルビアは勢力の拡大に向かい、[[セルビア帝国|14世紀の帝国]]を徐々に再生しようとしたため、近隣諸国との間では数々の紛争が発生した。1906年に始まったオーストリア=ハンガリーとの[[関税]]戦争(一般に「[[豚戦争 (1906年)|豚戦争]]」と呼ばれる){{sfn|MacKenzie|1995|p=27}}、オーストリアによる[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]併合に抗議したことで引き起こされた1908-1909年の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ併合#ボスニア危機|ボスニア危機]]{{sfn|Albertini|2005|pp=291–292}}、そしてオスマン帝国からマケドニアとコソボを獲得し、ブルガリアを駆逐した1912-1913年の[[第一次バルカン戦争|第一次]]・[[第二次バルカン戦争]]がそのような紛争の例だった{{sfn|Albertini|2005|pp=364–480}}。
 
セルビアの軍事的成功と、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナ併合に対する怒りは、セルビア国内外のセルビア民族主義者を勢いづかせた。特にオーストリア=ハンガリー帝国領に住むセルビア人は、帝国による統治に不満を募らせており、その民族主義的感情はセルビア系の「文化的」団体によって扇動されていた{{sfn|MacKenzie|1995|pp=36–37}}{{sfn|Albertini|1953|pp=19–23}}。1914年までの5年間、[[クロアチア]]とボスニア・ヘルツェゴビナにおいて、単独犯の暗殺者(主にオーストリア=ハンガリー領内のセルビア人市民だった)がオーストリア=ハンガリー帝国官吏の暗殺を試み、失敗するという事件が多数発生した{{sfn|Dedijer|1966|pp=236–270}}。
[[File:Gavrilo Princip, outside court.jpg|thumb|left|200px|[[ガヴリロ・プリンツィプ]]]]
1910年6月15日、{{仮リンク|ボグダーン・ツェラジッチ|en|Bogdan Žerajić}}は当時のボスニア・ヘルツェゴヴィナ総督{{ill2|マリヤン・ヴァレシャニン|en|Marijan Varešanin}}の暗殺を試みたが、失敗した。22歳のツェラジッチは、ヘルツェゴビナ出身の[[ザグレブ大学]]法学部の学生で、[[セルビア正教会|正教会]]を信仰するセルビア人であり、頻繁に[[ベオグラード]]を訪れていた{{sfn|Dedijer|1966|p=243}} (ヴァレシャニンには1910年後半にボスニアで農民の蜂起を鎮圧した過去があった){{sfn|Dedijer|1966|pp=203–204}}。ツェラジッチはヴァレシャニンに向けて5発の弾丸を発射した後、自らの頭部を撃って自殺しており、その行為は[[ガヴリロ・プリンツィプ]]のような未来の暗殺者にインスピレーションを与えた。プリンツィプはのちに、ツェラジッチが「私が最初に模範とした人物であり、私が17歳の時、彼の墓の前で何度も夜を過ごし、彼のことを考え、また惨めな現状を思い返した。そして墓の前で、私もいずれは暴力的な手段に訴えることを決めた」と語った{{sfn|Albertini|1953|p=50}}。
96行目:
==== 暗殺実行犯 ====
[[File:Proces w Sarajewie s.jpg|thumb|250px|サラエボ裁判の様子(最前列に座る5人は左から: グラベジュ、チャブリノヴィッチ、プリンツィプ、イリッチ、ジョヴァノヴィッチ)]]
*{{仮リンク|ダニロ・イリッチ|en|Danilo Ilić}}(セルビア軍の大佐士官[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ]]が率いる[[民族統一主義]]テロ組織「[[黒手組]]」のサラエボ地区指導者であり、大公フランツ・フェルディナントを殺害するための暗殺実行グループを組織・統率した。ボスニア系セルビア人であり教師や銀行員として働いた経験があった)
*{{仮リンク|ムハメド・メフメドバシッチ|en|Muhamed Mehmedbašić}}(「黒手組」の一員。没落した[[ボシュニャク人]]貴族の息子であり大工として働いていた)
*{{仮リンク|クヴジェトコ・ポポヴィッチ|en|Cvjetko Popović}}(イリッチにより暗殺実行グループに加えられた未成年のボスニア系セルビア人)
173行目:
1917年の初め、オーストリア=ハンガリーとフランスの間で秘密裏に和平交渉が行われた。それと並行して、オーストリア=ハンガリーとセルビアの間でも和平交渉が行われていたという情況証拠が存在する{{sfn|MacKenzie|1995|p=53}}。オーストリア皇帝カール1世は、[[テッサロニキ]]に亡命中のセルビア政府にセルビアの領地を返還するにあたっての主な条件を提示し、セルビア政府は、以後セルビアからオーストリア=ハンガリー帝国に対する政治的扇動がもたらされることはないと保証すべきであると要求した{{sfn|MacKenzie|1995|p=72}}。
 
和平交渉のしばらく前から、セルビア王国の摂政[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル]]と彼に忠実な士官らは、[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ|ディミトリエビッチ]]を中心とする党派をアレクサンダルに対する脅威とみなしており、その排除を画策していた{{sfn|MacKenzie|1995|pp=56–64}}。オーストリア=ハンガリー帝国からの要求は、ディミトリエビッチ排除の動きにさらなる勢いを与えた。1917年3月15日、ディミトリエビッチと彼に忠実な士官らは、サラエボ事件とは無関係のさまざまな虚偽の罪状で起訴され、裁判にかけられた(1953年にセルビア最高裁で再審理が行われ、全員の潔白が証明された){{sfn|MacKenzie|1995|p=2}}。1917年5月23日、ディミトリエビッチと8人の同僚(計9人)に死刑が宣告された。他の2人には懲役15年が宣告された。被告の1人は裁判中に死亡し、彼への起訴は取り下げられた。その後、セルビア高等裁判所は2人の死刑判決を取り消し、さらにアレクサンダルが4人の死刑を減刑したため、最終的に死刑となったのは3人のみだった{{sfn|MacKenzie|1995|pp=344–347}}。事件当時にセルビア軍諜報部長だったディミトリエビッチは、自らが大公フランツ・フェルディナントの殺害を指示したことを裁判中に告白した{{sfn|Dedijer|1966|p=398}}。裁判中、4人の被告がサラエボ事件への関与を告白しており、彼らへの最終的な以下の通りであった{{sfn|MacKenzie|1995|pp=329; 344–347}}。
[[File:Salonika Trial, after verdict.jpg|thumb|200px|テッサロニキ裁判の被告人(左端がディミトリエビッチ)]]
{| class="wikitable"