「剱木亨弘」の版間の差分

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官房副長官時代の「功績」として、戸籍届出における漢字制限の存続がある。戦後[[国語改革]]の一環として、新生児の[[戸籍]]届出において[[当用漢字]]以外は受け付けないことになったが、「命名権は[[基本的人権]]であり、漢字制限は憲法違反である」として、制限を事実上撤廃する「[[戸籍法]]の一部改法案」が可決されようとしていた。[[1951年]][[6月5日]]衆議院本会議の開会直前、剱木は[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]][[国会対策委員会|国会対策委員長]]の[[小沢佐重喜]]に直談判し、「私の下の名前(亨弘)が読めますか?…生まれてから今日まで、誰からも一度も正確に読んでもらったことはありません。親は自分の子供だからといって、人から読まれない名前を勝手に付けてよいのでしょうか」と訴えた。説得は功を奏し、結局法案採決は取り止めとなったという<ref>剱木亨弘:戦後文教風雲録、小学館、1977年11月、p.142.</ref>。奇しくも訴えられた小沢にも「おざわさえきと読めない」ことに関するエピソードが存在する。
 
[[1952年]]、[[岡野清豪]]文相の下で再び文部事務次官に就任。翌[[1953年]]、[[第3回参議院議員通常選挙]]に[[福岡県選挙区|福岡選挙区]]から自由党公認で立候補し当選。以後連続4回当選。
 
保守合同後は[[水曜会 (自民党)|緒方派 - 石井派]] - [[春秋会|河野派]]に所属する。[[1966年]][[第1次佐藤内閣第3次改造内閣]]にて文部大臣として入閣。[[1977年]]政界を引退後は[[福岡県立美術館]]長、[[共立女子大学]]学長などを歴任。