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Norio-abc (会話 | 投稿記録)
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[[群馬県]][[館林市]]出身で、実弟は釣り師の[[内藤裕文|ヒロ内藤]]。[[館林市立第一小学校|館林北小]]から[[館林市立第一中学校|館林市立一中]]へ進み、この頃医師を志すようになる。そのため、[[学校群制度]]が施行されて間もなかったとはいえ、東大に多くの合格者を送っていた[[東京都立日比谷高等学校|都立日比谷高校]]から医学部進学を希望して、親に頼み自ら中学2年次に上京し、品川の荏原二中に転校した。高校受験では、日比谷高、[[雙葉中学校・高等学校|雙葉高]]、[[慶應義塾女子高等学校|慶應女子高]]に合格し、日比谷に進学しようとしたところ、当時[[学園紛争]]の嵐が吹き荒れていた日比谷の状況を心配した母親・ミツが慶應女子高を選択した{{Sfn|読売新聞社|1994|p=62-63}}。
 
慶應女子高校時代は、医学部進学を目指して、7人もの家庭教師をつけたという“伝説”が生まれたほど頑張っていたが、医学部の附属女子3人枠に入れず、一般受験で[[慶應義塾大学大学院医学研究科・医学部|慶應義塾大学医学部]][[医学部#学科|医学科]]入学、練習のハードさでいわくつきだった当時の医学部スキー部に入部し、大学5年次には東日本医学部スキー大会の[[回転]]で優勝、[[大回転]]では3位に入賞した{{Sfn|読売新聞社|1994|p=73}}{{Sfn|読売新聞社|1994|p=76}}。[[外科学|外科医]]となってからは、[[慶應義塾大学病院]]では、慶應義塾大学出身者としては女性外科医第一号にあたる(同病院には、他大学出身の女性外科医は既にいた)。
 
外科医をしていた[[1981年]]に、[[大動脈解離|解離性大動脈瘤]]で入院した[[石原裕次郎]]の[[主治医|担当医]]の一人を務めている。この時の白衣が[[功夫|カンフー]]の道着に似ていたため、裕次郎から「カンフー姉ちゃん」とあだ名をつけられている。